#2001.08/18
思い出を語ることの困難?
以前、「蓄積される時間の消失」について書いたけども、「思い出」を語ることの困難が、今起こっているように思うがどうだろう。
たとえば、他人の苦労話に耳を傾ける人はどれだけいるだろうか。
最近の小説に、思い出話が語られるものがどれだけあるだろうか。もちろんないわけではない。たとえば、これも記事に書いたが、宮本輝『月光の東』などは、過去の思い出の物語であった。しかし、この小説がそれほどにアクチャルな感慨をもたらさないことのうちに、私のいうところの思い出喪失感があるという感じをもつ。
過去にまつわる情報は大量に存在する。写真は手軽に無数に撮ることができる。ビデオもまたしかり。過去の新聞記事を比較的手軽に拾い集めることもできる。しかし、そういう情報の集積のなかには、思い出は存在していない。
過去の出来事の素材は、「情報」として集積されながら、物語としての連関を断ち切られて、断片ですらなく、誰にでも手に取れる客観的なモノとして集積されているように感じられるようになっていると思われる。
今の話と深い関わりがあって言うわけではないが、村上春樹『アンダーグラウンド』を読んだときに、オウム事件に遭った人たちが、「事件」を知ったのは、テレビを介してであった。別に驚くほどのことではない。が、自分がかかわったことが、常に明確にメディアを介して了解されるという仕組みは、かなり身近なところに浸透している。
「思い出」を語りにくくなっているのだとすれば、それは過去が客体化される仕組みの浸透によるのだろうか。過去を語るための"物語の祖型"が共有されなくなったということだろうか。あるいは、親密圏の解体ということだろうか。そういう諸々の条件のなかで暮らしているからか。とりあえず、そんなところだろう。
一方で、過去=歴史は、今現在話題にもなっているように、政治的な意義付けをめぐる話題の中心になってもいる。政治的な有効性をもつ"物語"を突き崩すべき「記憶」が語られることがある。そういう話との関連で語るのは拙速になるから今はおいておくとして、ここでいう「思い出」は、誰にしもありうる「思い出」のことであって、それを語る言葉が失われているように感じる。
私は実に適切な例も示さずに言っているので、たんに私の個人的な感慨であるようにも思える。あるいは、失ったからどうだと言いたいことがあるのでもない。
しかし、私のこの直感がそれなりに同意を得られるようなものであるとすれば、もう少し控えめに言えば、この私の感慨の由来はなんだろうか。そして、「思い出」を失った人間とは、いったい何ごとだろう。

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