2001.08の「ヤマザキ3行日記」

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#2001.08/31    松本清張

 このところ続けて松本清張の小説など読んだりしていた。
 松本清張は、1950〜60年代に一般読者を獲得した戦後の大衆文学の巨匠としての顔をもつとともに、他方で、批判にさらされてもいた作家である。
 大衆化には類型化がつきものだといえるとすれば、清張の小説にもそのような類型化がある。何よりも、"安心して"読めるそのわけは、語りを導く視点が、語られる対象とは截然と区別されたところにおかれ、それはしばしば、典型的にはジャーナリズムの視点におかれていることによる。たとえば、『点と線』『ゼロの焦点』といった清張の推理小説が書かれた50年代後半の『蒼い描点』『黒い樹海』『歪んだ複写』といった作品がそうであり、1960年には帝銀事件、松川事件等の戦後の怪事件をあつかった『日本の黒い霧』を書いている。
 1960年代までの戦後社会というのは、国家対大衆(民間)という枠組みがリアルな枠組みとしてあったといえる。「知識人」(インテリゲンチャ)なる存在のカテゴリーは、そうした対項を媒介する者として考えられていたといえるだろう。たとえば、世界的にはサルトルの存在が、日本においては吉本隆明が支持を得るのもこの時代である。
 その媒介者的な性格を大衆にひきつけた地点に立っているのがジャーナリストだったりしたのだろう。しばしば松本清張の作品は「反権力、反体制的で、庶民の視点で物語られる」といった評され方をするが、基本的には、さまざまな社会風俗や社会機構についての「知識」を媒介するジャーナリスティックな視点にたっていたというべきで、彼の小説が観光小説の性格を強くもつのも、同様の意味で理解できる。
 そして一方で、推理小説というのが、現代版勧善懲悪小説であったと考えるならば、勧めるべき善と懲らしめるべき悪との境界が判然としない時代に突入した現在、実は推理小説の衰退が予見されているのかもしれない。

#2001.08/25    はははは、歯

 いやぁ、モリオカ(「モリオカ日記」2001/8/25 ドラキュラ)、おもしろいっ! 「歯にかけ」たら、自らの歯が折れてしまうモリオカらしい着眼だ。
 久々に爆笑した。(笑えないってか)。


 事情のわからない方々にだけ、ここでナイショの解説をいたしますと、モリオカは大変な虫歯で苦しんだあげく、前歯は虫歯のために失ったのです。ここだけの話です。

#2001.08/20    台風11号が近づく

 明日上陸との予報。日本列島を縦断するかもしれないとのこと。
 涼しげな風が吹き、虫が鳴いているけども、これは嵐の前の静けさ? 

#2001.08/19    秋が近づく

 久々に涼しい夜。エアコン消して、窓をあけているだけでも、すごせる。
 台風11号が近づいているのと関係があるのだろうか。
 ああ、また秋。ようやく、秋です。

#2001.08/18    思い出を語ることの困難?

  以前、「蓄積される時間の消失」について書いたけども、「思い出」を語ることの困難が、今起こっているように思うがどうだろう。
 たとえば、他人の苦労話に耳を傾ける人はどれだけいるだろうか。
 最近の小説に、思い出話が語られるものがどれだけあるだろうか。もちろんないわけではない。たとえば、これも記事に書いたが、宮本輝『月光の東』などは、過去の思い出の物語であった。しかし、この小説がそれほどにアクチャルな感慨をもたらさないことのうちに、私のいうところの思い出喪失感があるという感じをもつ。

 過去にまつわる情報は大量に存在する。写真は手軽に無数に撮ることができる。ビデオもまたしかり。過去の新聞記事を比較的手軽に拾い集めることもできる。しかし、そういう情報の集積のなかには、思い出は存在していない。
 過去の出来事の素材は、「情報」として集積されながら、物語としての連関を断ち切られて、断片ですらなく、誰にでも手に取れる客観的なモノとして集積されているように感じられるようになっていると思われる。
 今の話と深い関わりがあって言うわけではないが、村上春樹『アンダーグラウンド』を読んだときに、オウム事件に遭った人たちが、「事件」を知ったのは、テレビを介してであった。別に驚くほどのことではない。が、自分がかかわったことが、常に明確にメディアを介して了解されるという仕組みは、かなり身近なところに浸透している。

 「思い出」を語りにくくなっているのだとすれば、それは過去が客体化される仕組みの浸透によるのだろうか。過去を語るための"物語の祖型"が共有されなくなったということだろうか。あるいは、親密圏の解体ということだろうか。そういう諸々の条件のなかで暮らしているからか。とりあえず、そんなところだろう。

 一方で、過去=歴史は、今現在話題にもなっているように、政治的な意義付けをめぐる話題の中心になってもいる。政治的な有効性をもつ"物語"を突き崩すべき「記憶」が語られることがある。そういう話との関連で語るのは拙速になるから今はおいておくとして、ここでいう「思い出」は、誰にしもありうる「思い出」のことであって、それを語る言葉が失われているように感じる。

 私は実に適切な例も示さずに言っているので、たんに私の個人的な感慨であるようにも思える。あるいは、失ったからどうだと言いたいことがあるのでもない。
 しかし、私のこの直感がそれなりに同意を得られるようなものであるとすれば、もう少し控えめに言えば、この私の感慨の由来はなんだろうか。そして、「思い出」を失った人間とは、いったい何ごとだろう。

#2001.08/13    気のせい?

 前々から思っていたことだけれども、胸のポケットにケータイを入れていると、ときどき着信してバイブしているわけではないのに、ブルブルっとしたような気がすることがあるのは、私だけなのだろうか?
 しかし、パソコンの画面のそばにおいていたりすると、着信するちょっと前などに画面がブルブルと揺れたりするからなぁ。

#2001.08/10    ウィルスの流行

 windowsNT/2000のWWWサーバに感染するウィルス(coderedとその亜種)が猛威をふるっている。ISPからも注意を呼びかけるメールがきた。
 実際、職場のLANは今週になってインターネットへの接続がやたらと重くなっている。7月末に発生して、今月になってその亜種がかなりの範囲で流行しているとのこと。
 私自身は、人ごとのように思っていたら、友人から、「おまえのも感染しているかもしれないぞ。もしそうなら、せっせと他人のサーバを攻撃している」と脅かされ、あわてて対処した。今は、大丈夫だと思われるが、思い起こせば、その前には、どうもメモリの使用量がいつになく増えていたのはそのせいだったかもしれない。今でも、私が動かしているWWWサーバのログには、冒されたサーバからのアクセス記録がかなりの量、記録されている。
 まったく、この夏はいいことがない。

#2001.08/05    読書録にNo.15をアップ

 雑文に、支離滅裂な「物語る」こと云々の記事を書いてしまっていたので、たまたま手にした書の記事をアップした。
 「社会」を語るのに「自己」物語の特異な構造を論じることの意義は、何だろうか? そういう動機付けについての言及に欠けているような気がしたのは、私がちゃんと読まなかったせいだろうか。理論的な問題点の指摘はわかるのだが、しかしそれ自体としていえば、気づかれていない問題でもなく、それを言い立てることの意義が何かについての論脈が欠けているように思うのだ。
 もちろん、そんなことは、読んだ私が考えればよいことである。
 一方で、私は、近代文学会でシンポのパネラーになるという岡真理『記憶/物語』(岩波書店)と、重信房子の「自己物語」である『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』(幻冬舎2001.4)を思い起こして、混乱していた。
 他者の特異な(それゆえに特権的な)話題を持ち出して語ることを受け止めること自体のもつ意義と、他方で、誰にでもあるとるにたらない出来事の間の関係を考えようとしても、パンクする。

#2001.08/01    映画評の記事依頼

 匿名投稿氏(私の千里眼には誰であるか見えていますが)から、「映画についての評が昨年から増えていないのが気になりました。」とのメールを頂戴しました。
 なんとかすべし。
 久々に、モリオカくんに「HANABI」についてでも書いてもらうかなぁ。
 でもって、T氏にも頼むかなぁ。

YAMAZAKI Yoshimitsu
E-mail:yymzk@fo.freeserve.ne.jp