2001.05の「ヤマザキ3行日記」

[「ヤマザキ3行日記」のトップに戻る]
[この月の初めへ]
[後の月] [前の月]


#2001.05/29    発話の不自由について

 しばらく前から、このHPや「文学・思想懇話会」のHPもGoogleの検索にひっかかるようになっている。たまたま思いついて、どうなっているかと検索にかけてみたが、いいのかわるいのかわからないが、ちゃんとひっかかっている。
 見知らぬ人がたまたまのぞきに入ってきているかもしれない公共の場にさらされているわけだ。
 発言は、発話する場によって意味が異なることはいうまでもなけれども、Webでの発言は、この日記のような私的な発話であっても、可能性としては不特定多数に向っての発話にもなりうる。たとえば、マス・メディアの報道にのった瞬間に何千何万ものアクセスを受けてしまうなどということが、可能性としてはありうる。もちろん、その可能性は限りなく低いともいいうる。
 教室ではいえない発話も、私的な会話のなかでは言うことが出来る。しかし、今問題になるのは、「教室」という公共の場と、「私的な」場との境界線がハッキリしないことが常態化しているという事態だ。もちろんこういう事態は、Webの普及拡大以前からあるし、Webに固有の事態でもないが、急激に促進しているとはいえるだろう。
 「私的な」領域にもまた同様の事態は起きている。Aさんと自分との関係と、Bさんと自分との関係は異なるわけで、それがAさんにもBさんにも読まれてしまうということは、Aさんとの間で、あるいは、Bさんとの間ではしやすい話も、AさんBさんのそろったところでは、どちらに向けても大丈夫なことしかいえなくなるという不自由が発生する。Web上でものを書こうとするときに誰もが感じている不自由は、まずはそんなところにあるだろう。
 関係の発生している場を<世界>というならば、<世界>が多重化していることが常態と化しているわけだ。今自分がどういう場で、どういう立場から(つまり、どういう<世界>で)発言しているかがハッキリしているならば、発話も比較的容易だが、可能態として多重化していることが前提となる"不安定な"場での発話は、不自由になる。
 これはいわゆる「公共圏」の社会学的な問題なのだろうが、今後ますます<世界>は複雑化していくことになるに違いないし、その縮減の方途も多様になるにちがいない。


#2001.05/28    

 この週末日本近代文学会の春季大会に行って来た。
 「性の表象――ヘテロセクシュアリズムの機構」というテーマでのシンポジウムがあった。
 これもまた自由の問題の一つであるといえるのだろう。男/女という二元論に還元できない性の多様性を多様性として認知し、さしあたって複雑性を隠蔽する制度の不当な不均衡を崩していくことで、選択可能な地平を開き、自由が保障されるべきであること。
 帰り道で一緒に歩いていたT氏は「いやぁ、(会場の)○○大学の学生さんはかわいい子が多かったよなぁ」などと言っていた。もちろん、それは実感でありつつあえてこの瞬間に言ってみたかったのであろう。この瞬間に問題になるのは、発言そのものではなくて、発言によってもたらされる(されない)効果の方なのだろう。この延長上には、公共性の範域とヘゲモニーの問題があるにちがいない。
 いや、実にややこしい。


#2001.05/25    リバタリアニズム

 笠井潔に『国家民営化論』という評論がある。自由主義と平等主義は逆立するという論点から、自由をラディカルに肯定し国家の機能を全て民営化することは可能かを論じたものである。
 森村進『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』(講談社現代新書2001.2)も、個人の自由な権利を肯定することの可能性を思考実験したものである。
 笠井のものを読んだとき、自由主義的とされる現在の社会とくらべても、ラディカルな自由主義の世界はSFでも読んでいるかのようなついていけない感じをうけた。言い換えれば、リバタリアニズムのイズムとしての異様さみたいなものも感じたが、森村の書にも同様の感じを受けた。
 気になるのはリバタリアニズムの前提とする人間観である。
 自由であることは、「人間」が、諸可能性のうちから選択をする<主体>であることが前提となる。それゆえ、国家の名によって、民族の名によって、あるいは公共性の観点から強制されるあらゆる力に対して、個人の権利と選択の自由を追求しようとする。
 だが、選択する<主体>たりえない人はどうなるのだろうかという議論に対しては、ほとんど考慮がなされていない。高齢化による思考力の低下、乳飲み子はもとより、未成年はどうなるのか? たとえば森村は、未成年について次のように述べている。

 リバタリアニズムは人々を、自由で権利を持ち責任を負う個人として尊重しようとするが、子供についてはこの原則を徹底できない。そこにおける子供の地位は、見習い中の人格とでも言えよう。
 それゆえに、親の養育の義務を指摘するのだが、では、「見習い中の人格」はいつ「自由で権利を持ち責任を負う個人」になるのかについては、「それは何歳がふさわしいかというと、現在の日本の二〇歳では少し高すぎるという以上のことは言いにくい」と言ってすましている。
 しかし、今問題となっているのは、個人が独立=孤立した個人ではありえず、つねにすでに共身体的に存在していることのうちにあるし、未成年であるか否か(ある年齢を超えているか否か)の線引きだけでは、説明もつかなければ、現に起こっている(起こりうる)事態に対処しえない。社会がある程度の安定をたもって存立していくためには無視できない問題だろう。
 同様に、病気・事故・高齢化によって自由を行使しうるだけの思考力と判断力をもちえない人は、どうなるのだろうか。さらにいえば、リバタリアニズムは、脳死をどう考えるのだろうか? 思考停止して、そこにドロンと身を横たえているそれは生きた人間なのか? についてどう答えるのだろうか。
 森村は、エコロジストのかかえる全体主義(ホーリズム)を批判しながらも、動物についてふれて「動物の福利に配慮して、人間による残酷な取り扱いの禁止を主張する動物愛護論に共感を覚える」としている。森村は「動物」をどう想定しているのかよくわからないが、しかし、動物の肉を食べて生きていることに対しては、どう考えているのだろうか。同じことを、植物にあてはめてもよい。この場合、「人間」という主体にとって愛護の対象と認識された動物・植物の「愛護」を言っているにすぎず、「自由で権利を持ち責任を負う」ことのできる<主体>としての「人間」に「愛護」の情をかけられないそれは、そのものとしての存在価値を保証されないということになるはずだ。だとすれば、脳死身体は、判断力を喪失した人間はどう考えるのだろうか。
 リバタリアンにもまたエコロジストのかかえるのとは異なりながらも、ラディカルな普遍主義のかかえざるを得ない問題点があることはいなめない。
 自由の原則は、もっとも擁護すべき追求すべき原則であるように、私も考える。だが、それをラディカルに追究しようとするときには、その不可能性が見えてくる。「自由はどこまで可能か」について、不自由にしているもの(国家をはじめとする諸権力)に対する自由の追求のみならず、自由を可能にしている条件そのものの不可能性をも問題にしないでは十分な論じ方にはならないだろう。


#2001.05/21    

 「読書録」に、村瀬学『なぜ大人になれないのか』の記事をアップしました。
 「少年」を、「狼」、「外国人」、ひいては「エイリアン」になぞらえるあたり、我が意を得たりと思ったりした。


#2001.05/20    蓄積される時間の消失

 この間テレビを見てたら、小田和正がインタビューを受けていた。彼の歌は、過去の追憶をうたったものが多い云々との話をつらつら聞くに、そういえば、近頃の歌がどうなのかはよく知らないが、歌にしても、タレントのキャラクターにしても、過去ないしは影とでもいうべき蓄積された奥行きを感じないよなぁと思ったものだ。
 キャラクターということで言えば、アイドルというのはそもそもそういうものかもしれないが、広末涼子がでてきたときに、ちょっとショックを受けたものだ。そのショックは、影をもたないという印象であったといえばいいか、アニメかCGIのキャラクターのごとき印象といったらいいだろうか、そんな感じを受けた。そのあとにでてきた浜崎あゆみなどは、積極的に人形的であることに惹きつけられて人気を博していると聞くが、すでにそれほどの驚きも感じなくなっていた。
 考えてみると身の回りのものも、手垢にまみれて、時の年輪を感じるものが少なくなっている。ことのほかバブル以降、消費の回転が急速にはやまり、加えてIT革命の革命たるゆえんもこの辺に大きな変革をもたらしているといえるに違いない。紙に書いた手書きのものは、それ自体が時の経過を刻印していくのに対して、電子化されたものは、一瞬にして消えるし、物としての年輪はほとんど残さない。今どき、何十年も建っている家に住んでいる人はどれくらいいるのだろうか。
 蓄積される時を消失していることによって、何を喪失しているのだろう。


#2001.05/19    「雑文」コーナーに記事をアップ

 久々に「雑文」のコーナーに書いた。当初ここに書いたのだけれど、あまりに長いこと更新がなかったので、あっちに書きました。


#2001.05/13    森のクマさん、街のくまさん

 「クマが入り込み、座敷でリンゴを食べているのに隣室で寝ていた高橋さんが気付いた。高橋さんは、裸足のまま約50メートル離れた長男宅に駆け込み、警察に通報した」(http://www.asahi.com)というニュースが流れていた。しかし、社会面にならんでいると、なぜかホッとするような気がしてしまう。いまや"都会のレッサーパンダ"(街のクマさん)の方がよほど凶悪で得体が知れないからである。


#2001.05/11    『〈歴史〉はいかに語られるか』

 昨日仕事で三ノ宮まで行った帰りに、ジュンク堂に寄ってきた。
 ふとみたら、この日記にとって時宜を得た本が出てるじゃありませんか。成田龍一「〈歴史〉はいかに語られるか 1930年代「国民の物語」批判」(NHKブックス 2001.4)。
 藤村『夜明け前』を最初にとりあげ、火野葦平の小説、『小島の春』などがとりあげられている。


#2001.05/09    大岡昇平――モリオカのふりに応えて

 モリオカは大岡昇平全集を借り出して読んでいるとのことだが、それは借りるまえに、私の作った全集目次を活用したのだろうか。ところで、大岡全集は3種類くらいあったと思うが、新しい全集のを借りたんだろうね。
 大岡昇平はどこかで松本清張を批判していたと思うけれども、同時代を舞台とした小説・推理小説・歴史小説という系統をもって小説を書いていたという大雑把な目で見ると、似たところがあるんだよな。
 それは今はおいておくとして、事改めていうほどのことではないだろうけれど、歴史が歴史たりうるのは、いかに説得的な物語たりうるかという点に求められることになるだろう。それは、場合によっては、ナショナル・アイデンティティにとって「説得力」のある共感しうる物語であるかもしれないし、国際関係において「説得力」のある物語であるかもしれないし、愚直な資料と証言の掘り起こしと整合性を提示しうる物語であるかもしれない。
 大岡は、裁判小説(『事件』など)を書いているけれども、この小説は「裁判が<真実>を明らかにしうるかどうかを問題化した」というのではなく、<事実>として説得的に語りうる物語が、裁判というコミュニケーションの場でいかに生成するかを、語る主体でありうるかなきかの境界的な<少年>という形象を導入することで問題化した小説であると考えると、<事実>なり<歴史>なりとして語られる物語の場が、共身体的な性質をもち、孤立した身体をも巻き込むリアルなトポスであることを呈示しようとしていたというようにも思われるがどうだろう。


#2001.05/08    『偶然性と運命』

 木田元『偶然性と運命』(岩波新書2001.4)を読んだ。題名からして、私は読まずんばあらざるべからざる書と思って早速読んだ。が、題名負けしていた。「恋人とめぐり逢ったという意識、つまり逢うべくして逢えなかったその人にようやく出逢えたという意識」から語りはじめるのをみて、ん〜〜と言葉を失う。
 この書では、九鬼のいう<論理的偶然性><経験的偶然性><形而上的偶然性>の三つの次元のうち、<経験的偶然性>に焦点をあてて論じていたが、私が思うに、九鬼の『偶然性の問題』の問題点は、<形而上的偶然性>を論じる段にこそあるように思われる。安易に、超越論的な視点を持ち出して論じてしまうことのうちに予定調和的な論調を容認する穴があるように思われるからだ。
 偶有的であることというのは、今の生活実感として、おそらく誰もがリアルに体験しているし、現代性の現代性たるゆえんがそのへんにあると直感しているにちがいないと思われるが、しかし、それはなかなか「運命」として実感されることは希薄になっている。そう思うと、今、偶然性の運命への転化を語ること自体が反動じゃないかとすら思われた。


#2001.05/06    「歴史」的事件

 「歴史」教科書問題で、韓国との話し合いが続いているさなかに、金正男"と思われる"人物の密入国事件が起こった。田中外相は、「男性がどのような立場にあるか警察庁、法務省、外務省ともに確認できなかったので、一般の人と同じように法にのっとって強制退去してもらった」とコメントしているとの報道だ。
 北朝鮮との政治的な駆け引きをすべきであった等のコメントはすでに出ているが、金正男"と思われる"人物であって、金正男"であった"という事実として認定されていないあたり、歴史=事実なるものの政治的な性質をあからさまに示してしまった事件であったろう。
 たとえば、この「事件」は教科書に載せることが出来るだろうか。


#2001.05/03    

 「読書録」に奥泉光『鳥類学者のファンタジア』の記事をアップした。


#2001.05/02    ねじれ

 首相公選制を導入するという総理大臣の意向が報道されている。これが単純に民意の反映になるとは思えず、そもそも民意自体がどう形成されるのだろうかと思うと、必ずしも手放しでよいことだとも思えないところがあるが、民主主義の建て前に照らして改善だといえるだろう。
 一方で、中学校の教科書選択は、"公選制"が廃止されているようだ。これまで現場の教師の意向によって絞り込みを行っていたのが、多くの市町村でこれを廃止し、教育委員会の意向によって決定するように改められているという報道がある(asahi.com社会)。これはどうしたことか? しかも、文部科学省の意向だそうだ。
 そういう変更が、ここでなぜ必要なのか、その事情が見えない。そもそも、教科書をなぜ市町村で統一してつかわなければならないのかがわからない(いうまでもなく、高校などは各学校で決めているし、実際に教えている立場からしたら、どうかしたら自分で作ったもので教えたいくらいなのに)。つまり、これまでのやり方のどこに問題があったのかがよくわからないし、現場の教師の意向が無視されることが、改善になるのかどうかはさらに疑問だ。
 ここでも、変なねじれがあるようだ。


#2001.05/01    

 巨人ばっかり勝って野球がおもしろくない。
 こういうのは、なんだか、勝つことが前提となってやっているコンピュータ・ゲームの感じに近いだろうか。私はあまりやらないから、そのゲーム感覚というのはよくはわからないが、あれやこれやの難関があっても、基本的にはクリアできてしまうことが前提となってできているのだろう。
 これから夏だというのに、ことプロ野球に関しては、もう秋がきたみたいな気分だ。

 てなことを書いていたら、17-0で巨人が負けた。アナウンサーは、「今年のペナントレースの流れが変わる試合になりました」なんて言っている。んなわけはねぇだろ。


y.yamazaki
E-mail : yymzk@fo.freeserve.ne.jp