2001.04の「ヤマザキ3行日記」

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#2001.04/27    言葉が受肉する

 ニュースを見ていると、小泉内閣が成立して、各大臣のコメントが報道されている。外交問題では、(歴史)教科書問題についてのコメントが求められていた。小泉は、「緊密な話し合いが必要」といった婉曲なコメントであったが、外相をはじめ「歴史をねじまげるような非常識な教科書はけしからん」などといったコメントもあった。そんな報道を見ていると、対外的には国内の新しい教科書の動きはけしからんと言う必要があるのだろうと思う。
 しかし、新しい教科書を作る会に名を連ねる人には、社会的有力者が多いと言われているし、講演会に市教委が名を連ねていてあとからハズされたということも起こっていたなど報道されていたりする(中学校の教科書は、現場で選択されれるのではなく自治体ごとの選定になる)。勢いいよいよ盛んであるのもいなめない事実である。
 国旗国歌問題でもそうだが、国のレベルでは強制ではないといいつつも、自治体のレベルでは事実上強制に近い圧力がかかっている。建前と実際に行われていることの間に差があることは否めない事実としか思えない。
 "歴史的事実"と言われる問題であっても、"日本という存在"であってもよいが、それが事実であるか虚構であるかといった問いは、そもそも無効で、歴史的事実のあれもこれも、日本という存在のありやなしやも、いずれにせよ、それは資料や証拠物品や、習慣・習俗・風俗・文化等もろもろの存在を、より整合的に意味づけようとした、言葉による"虚構"にすぎないということができる。が、そう言うことはたやすく、たやすいだけに何も言ったことにはならない。"虚構"であるにもかかわらず、それが実効性をもっていることのうちに問題がある。実際、教科書問題も、その問題たるゆえんは、あれこれと"歴史的事実"を語ることの政治性が問題になっている。
 水俣病患者の関西居住者の裁判の勝訴が報道されていた。もうはや、最初の発症から半世紀にもなる。国や県を相手にしての裁判であったようだが、この裁判の意義はいったい何ごとだろう。少なくとも、補償金などは二次的な問題だと思わざるを得ない。(50名ほどに大して三億数千万の判決だったようだが、一人に対して数百万でしかない。一人の年収がなんぼになるか、これまでの医療費はどれだけになるかを考えたら、半世紀の苦しみに対して数百万では少ないというべきであろう)。<事実=存在の言葉>を回復することの重みのようなものを感じる。
 あらためて、そんなことを思わされた。


#2001.04/23    『鳥類学者のファンタジア』

 奥泉光『鳥類学者のファンタジア』(集英社2001.04)を読んでいる。読んでる途中だが、ちょっくら書いてしまおう。
 この人の小説は、饒舌さが特徴で、おしゃべりの強度によって過去と現在を往還し、夢と現実が交差する世界をひらいていくところが読みどころであるが、『「吾輩は猫である」殺人事件』から殊の外饒舌に拍車がかかっている。これまでの作品では多様な文体を駆使するところがよかったのだが、どうも今回の作品は、私語り(といっても、語る私が語られる私を「フォギー」と三人称で呼びながら物語られる点は変わっている)であるせいもあろうが、やや単調さを感じる。語り手であり主人公である「私」はジャズ・ピアニストの女性だが、1944年のベルリンで失踪した父方の祖母曾根崎霧子の事跡をたどって、1944年に迷い込んでいくファンタジックな物語である。
 家系を遡るように記憶が掘り起こされていく物語は、『石の来歴』がそうであったし、奥泉以外にも、島田雅彦『彗星の住人』がやはり家系を遡る物語であった。今、家系を遡る記憶の物語がこうも書かれるのは、単純にいって、家系を遡ることで出会い開かれる〈世界〉が身近な異界として認識され、記憶こそが物語の母胎でもあるからか。


#2001.04/20    新緑

 いつの間にやら新緑の季節。
 中之島図書館に出かけた。とても狭いのに人は多く、個人全集は禁帯出! だったりするのがさむいが、この季節、中之島図書館あたりをうらうらと歩いても寒くもなく暑くもなく心地よいものである。帰りには本屋によった。
 梅田あたりの地下街は、しかし、どうしてああも天井が低いのだろう。手をのばすととどきそうである。ちょっと背の高い人だったら、頭がつきそうな気がすることだろう。夕方のことである。梅田のジュンク堂によったあと、地下街を歩いていると自然が私を呼んでおり、どこぞに雪隠はあらぬかと探してみたが、案内板がない。大阪の街は、通りの案内がとてもとても不親切である。が、このあたりを入ったらありそうだと思う当たりに、保安室という札があるので曲がってみたら、やはりあった。保安室の隣にトイレがあるのは、やはりトイレは死角になるからだろうか。何となく、入る方もほっとする。
 地下街を歩くのは、毒ガスがしかけられた事件があったからというわけでもないが、昼間のように明るくても、何かなし、落ち着かないような気がするのは私だけだろうか。


#2001.04/10    桜散る

 もう桜も散ってしまった。
 仙台に住み始めたとき、桜(ソメイヨシノ)は4月中旬に咲くものであることに驚いた。青森ではゴールデンウィーク。関東では初旬に咲いており、入学式には桜の木の下で記念写真を撮るものだと思っていた。仙台では、入学式のときにはまだ咲いていないのである。大阪では、今度は少し早すぎる。3月末から咲き始め、入学式にはうまくいけば満開だが、どうも散り始めになってしまうことが多いようだ。
 そう思ってみると、入学式と桜というイメージは、実に東京を中心とした一部地域でのみ可能な季節感にもとづいていることになるのだと気づく。昔から桜は日本で好まれてきた花ではあろうが、年度が4月で変わること、東京が「首都」であったことと、桜が国民的なイメージとして定着したこととの関係も根深いのであろう。それが基準となって国民的な感性が涵養されることになったということか。
 もうすぐ、花びらではなくて、毛虫の落ちてくる季節になる。 


#2001.04/04    桜咲く

 桜が咲き始めたのになんだか、スカスカと寒い日が続いている。風も強い。風呂でも入ってあったまろうかと思ったら、お湯がでない。給湯器が故障したようなのだ。やるせない。


y.yamazaki
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