2001.03の「ヤマザキ3行日記」

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#2001.03/23    シンクロという作法の臨界

 自分のものならぬ作り物の異物たる歯を入れて自分のものにした次は、官能のトポスたる口唇に不意におとずれた痛みという異和を通じて、外と内との境界の定めないその亀裂から、トクトクと湧き上がる血潮にまみれてまどろむモリオカが体験しているのは、常日頃、二日酔いでゲロを吐く大江的主人公により近い体験をしているモリオカにしては現代的だ(「モリオカ日記」#2001/3/23)。
 『コンセント』の話のついでに、もう一言ここで気になったことに触れておこう。小説も終り近く、"コンセント"(身近な人間の感情に感応し翻弄されている者)を癒すシャーマンとなった「私」は、訪れる「二十代〜三十代の会社員」を相手に癒しを執り行うのであるが、気になるのは、次のような限定なのだ。

 ここを訪ねてくる人の多くは、二十代〜三十代の会社員だ。時にはもっとオジサンもいるけど、私はあまりオジサンには興味ない。もう時間が少ないのだ。年寄りの魂を癒したところで未来にメリットはない。(p.293)
 ナルホド、巫女もシンクロするには、若い男の方がいいのだろう。しかし、逆にいえば、このシンクロの作法は世代でいきづまるということになる。この「私」も年をとったら、相手にしたい相手も変わるのだろうか。ここには端なくも、エイジズムの萌芽が読めるといったら穿ちすぎだろうか。
 おじいさんと若い娘のお話ならば、おそらくたくさん存在するだろう。川端の『眠れる美女』だとか、谷崎の『瘋癲老人日記』なんかがあげられる。しかし、若い娘だと思ったら、実は白髪のばあさんだったなんてのはありそうだが、純粋に! ばあさんと若い男の官能の物語は、少ないにちがいない。
 <世界>には確固とした意味がないことを前提とした地平において、あやうくもその地平の条件に見合った意味の回復の作法がシンクロによる癒しであるのだと言うのだとしたら、次に訪れるのは、シンクロし得ない他者との軋轢ということになるだろう。


#2001.03/22    全集目次作成中

 気温も20度を超えるようになってきた。来週には桜が咲くだろう。
 「うずまく研究室」の全集目次の、武田泰淳・大岡昇平・中村光夫あたりが、暫定的にできあがり(つつあり)。歯抜けだったりするのは、別なところで残りを調べなければならないという事情による。地道な努力が必要だ。


#2001.03/20    「アンテナ」

 モリオカの見たというドラマ(「モリオカ日記」)は、見てないなぁ。近頃とんとドラマからは縁遠い。
 田口ランディ『アンテナ』(幻冬舎2000.10)を読んだ。『コンセント』の男の子版と言った風情で、今度は妹の消失という欠損によって壊れた家族と「私」をめぐる癒しと喪の物語。
 この人の小説は基本的に隠喩と反復を基調としている。隠喩は類似によって意味を創出するレトリックである。私とあなた、彼と彼、彼と彼女が類似した存在者となることがシンクロのとば口であるとすれば、隠喩と反復による言説構制は、ちょうど登場する人物達がシンクロしていくことと見合っている。「アンテナ」は、大地に対して鉛直に屹立する人間一般の喩であるとともに、屹立する男根の喩でもあり、そこを介して外部と交信することをも意味する。他者は"鏡"であり、消失した妹は「私」の欠損を意味する鏡だといった認識から出発して、「僕は自ら発光している」(p.280)というところに変容していく。「私」は、H・M・エイブラムズのいうロマン主義的な主体へと変容していくかのようでもある。
 しかし、この小説は、実際にありそうだといった次元からは遠く、夢と現実の境界は溶解して定めなく、にもかかわらず、なんの異和もなくペロッと読めてしまう。
 SMの処理の仕方から言って、モリオカなんかはどう読むんだろう。共生する主体という意味では、意欲作とは言い難いとは思うが、測定はしやすいかもなぁ。


#2001.03/18    記憶する身体のゆくえ

 佐野さんのエッセイ4を遅ればせに読みました。佐野さん、アップしたらMLで流してくれなくっちゃ。
 たまたま今日テレビで、個人で番組を制作しWebで発信しているアメリカ人を紹介していた。日本で小中高大と育った人らしく、もはや日本人というべきかアメリカ人というべきかわからない。ところで、その人が、韓国に取材にいったのに同行している場面が流れていた。そこでのコメントが、生活に活気がある、日本の高度経済成長期を思わせるといったようなことであった。バスに乗りながら、「こうしてガタガタと揺れている間が実は一番良いときで、これがきれいに舗装されて、日本のように、お店に行けば、いらっしゃいませ、ありがとうございます、などと言われるようになったら、つまらなくなるだろう」と語っていた。
 佐野さんの書いているのもこうした印象につながっているのかなと思った。歌を聴く限り(といっても私自身は聴いてないけど)、韓国も変質しつつあるということなのだろうか。
 ところで、今の日本の学校化社会のありようの、もっとも大きな問題点は、おおざっぱに言って世代間ギャップであるように思える。学校は学年クラス制が敷かれ、成人するまで、親しくつきあう者といえばほとんど同年代の人間になる。それは、高校進学率が100%に近づいた'70年代から顕著になっているのだろう。歌の浸透度にもあてはまるように思える。
 それゆえ、「国民の記憶」の共有度も低下しているのだとすれば、なるほど、国歌を歌えと言っているのも「国民の記憶」の涵養の戦略だといえる。あるいは、現状にいきり立った世代が、「国民の歴史」だのと言い出すのもわかる。言い出しっぺの一人は、かつての左翼だとのことだが、かつての左翼が「国民」的運動の様相を帯びていたことを考えてみれば、うなずけるというものだ。
 「国民」という範域に固執することのない、クールな記憶の共有がどうやって可能なのか、ちょっとアイデアはないけれども、記憶は見る聴く触れるの反復を介した身体の時空間として涵養されるのだとすれば、いろんな意味での身体の行方が問われているのだろうか。


#2001.03/13    

 「読書録」を久々に更新。


#2001.03/05    老年のすがすがしさについて

 ふとテレビを見たら、夜中の民放で、「仙台銀座」が映っている。おお! 北仙台の仙台銀座じゃないかと思って見ると、雀荘でおばちゃんが打っている。どうもこのおばちゃんが主人公らしい。仕事もなく、友人宅に転がり込んで、仕事を探しているところだとナレーション。と、新宿に出てきたところが映り、何かと思えば熟年者のお見合いパーティーに出ているのである。50代、60代が多く男も女もそれぞれ80人も集まっての大パーティーなのである。しかし、件のおばちゃんは、68歳。残念ながらうまくゆかず。
 話を聞いていると、どうやらこのおばちゃんはバツ3で、かつては銀座の高級クラブを経営していたようなのだ。何があったのやら、多情多恨の人生らしい。故郷の埼玉にある両親の墓を詣でてわびている。
 仙台の工事現場で賄い婦の仕事を見つけて働き始めたところで番組はおわる。
 なんだか、実にスガスガシイ顔したおばちゃんで、人を払う風情が感じられるから不思議だ。68歳にしては若々しいが、若さとしてよりも、落ち着いた活力のアウラが、見ていてすがすがしいのである。
 とは言っても、このすがすがしさは、働けるだけの体あってのすがすがしさであるから、その意味では恵まれた老年であるのかもしれない。このおばちゃんだって、いつまでそうして働いていられるのかはわからない。世の中には、寝たきり・痴呆・病気持ちの老年を過ごしている人の割合も高いことだろう。
 そうした割引もしたとして、でもこのすがすがしさは、シンプルなことにでも由来しているのだろうか。


#2001.03/03    

 「爆笑オンエアバトル」が、3/11から3回かけてチャンピオン大会だそうだ。20組全部放送とのこと。


#2001.03/01    

 あっという間に2月が終ってしまい、日記もだんだんと間遠になってきてしまっていた。ふ〜
 日ごとに暮れるのが遅くなり、昼間も暖かくなってきた。春が近づくと何となく気が軽くなるような気がするから不思議だ。オープン戦もはじまる季節になった。
 「うずまく研究室」も、毎日ちょっとずつしか進められないが、地道にやって、ある程度以上情報がたまってきたら、少しは役にたつようになるだろうか。まだまだ入力予定の全集は山積しているが、細く長くやっていくしかあるまい。ぽつぽつと読みながらやっていくか。


y.yamazaki
E-mail : yymzk@fo.freeserve.ne.jp