#2003.06/05
”みんな”という視点
何とはなしに直感的に「よいこと」と思うことの範囲はあいまいに広い。誰かにとって都合の「よいこと」、理想的だと思えるという意味での「よいこと」。
前者は独善であったり、誰か(たち)にとってだけよいことで、端的に「気持ちがよい」という方に傾斜しており、その誰か以外の人にとってはよくないことが含意されるのに対して、後者はより一般的、普遍的、本質的に善だと思われていることで、誰も到達していない頂上あたりに見はるかされるのであるが、その境界はあいまいで、なだらかにつながっている。
問題は「誰」にあるようだ。私と私たちにとって「よいこと」と、彼・彼女らにとって「よいこと」であって私と私たちにとってよくないことがあるとき、ある種の抽象化された”みんな”が想定され、この”みんな”は私でもなければ彼・彼女らでもないような”みんな”なのだが、その”みんな”にかかわって「よいこと」が、私にも彼・彼女らにとっても「よいこと」だとされる。
あるいは、頂上を見はるかしてそこにいきつくことを前提として言う人もあれば、そもそも頂上そのものがいくつもあるわけで、しかも、頂上に登ることなど思ってもみないところで傾斜をよぎって向こうへいきたい人たちもいるのだが、傾斜に居をしめているかぎりにおいて、頂上が「上」であることには違いなく、重力には逆らえないといったその重力の負担を”みんな”の論理からうけとらないではいられない。
よく見また聞くと、そこには多数派の論理が働いていたり、強者の論理がはたらいていたりする。だが、構成される論理は”みんな”のものだとされる。それなりに説得的な論理が、”みんな”の意見を代弁しているかのごときマスメディアによって語られたり、「科学的」知見として語られるなどして、構成される。
公的な場での「よいこと」というのは、そういう”みんな”にとって「よいこと」に依拠した論理によって、大きな声で語られる。
こういうことは事改めていうほどのこともないことではあるが、「よいこと」のなだらかに折り重なった現実に対して、”みんな”にとって「よいこと」の論理を垂直に交わらせることで、今の社会が様々に分節され、流動しているということをしばしば感じる。
もう一つの問題点は、重力から誰もが逃れられないように、「身近ないちいちの言行」にかかわるところで、「問題」がコト挙げされることである。電車のなかでケータイで電話をすること、タバコを吸うこと、ゴミの仕分けをすること、ペットの糞の始末から、歳の違い、立ち居振る舞い、性差による言動のいちいちなどなど。タマちゃんをめぐる争いなど、そういうことを象徴する出来事であるようにも眺められる。
端的に言って、一面において、些細な、どうでもいい、くだらない、大したことではない、私には関係ないと口走りたくなるようなところでそのコトは起こっており、にもかかわらず、「誰か」にとっては見過ごせない、不愉快な、また深甚な意味をもつコトであることもまた事実であったりし、その誰かと誰かとの間のなだらかな傾斜の差においてコトの問題たることがコト挙げされるのである。
こういう環境のなかでくらしていると、お行儀のよい人たちは”みんな”の論理に盲従しがちで、そういうお行儀のよさに居心地が悪いが、かといって”みんな”の論理に勝る論理を構成するのが難しいとなると、面倒になるか愚痴と沈黙に押しやられ、他方で、コト挙げせねば居心地が悪くまた無視されると思えばこそ勇をふるって、あるいは誠実に、その”みんな”の論理にしたがい、またそこからこぼれる”みんな”に収まらない立場を主張するなどし、不愉快にもなるところをふるって、言ったりもする。
元気に生きて行くには、これ、実に語りやめないことが重要な意味をもつ、そういう環境のなかに身をおいていることに、またとても疲れたり。
そうなってみると、ナチュラルに鈍感であることが一番気苦労が少ないのでもあろうが、そうだれもができるわけのものでもないから、鈍感であるフリをしてみたり。
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