#2001.09/14
同時多発テロ
連日報道が続いており、今も報道が続いている。アメリカで同時多発テロが発生した。ここも一種記録としての意味もあるからやはり記しておくことにする。
9/11pm10:00前にニューヨーク世界貿易センタービルにハイジャックされた民間機が直撃炎上。pm10:00過ぎには、2機目が直撃。約2時間後に同ビル崩壊。
アメリカ政府は、テロ組織に対する自由主義・民主主義=善としての徹底抗戦を宣言。相手は、仮にアラブ人であっても、敵は「テロリスト」であり、「テロリズム」であると強調。日本政府も同様の談話を発表している。
11日の晩はといえば、10:20頃、私は自宅マンション下の中華料理屋で遅い飯を食っていた。テレビがついており、ニュースステーションをやっていた。映像が流れており、音はよく聞こえない。ビルが燃えている映像をみて、大火災かと思っていると、向かいの席にはおばちゃんたち6人ほどが座っていたのだが、なかの一人のおばちゃんが「ビルに飛行機が入ってるんだって、あははは」と言っている。続いて、飛行機のような影がビルにつっこんでいく映像が流れて、とりあえず、ただの火災ではないことが私にもわかった。
阪神大震災のあった日は、風邪をひいて重い頭で朝テレビをつけたら、高速道路が倒壊して、街が炎上しているシーンがとびこんできたものだった。
多くの人が、大震災のときに見たシーンを想起したことだろう。実際、そう語っているキャスターもいた。もちろん、天災と人災の差があるのだが、その差があいまいになってきている。それは、事をわけて言うならば、1つはメディアを通してのみ事を知るという事情、2つには事を引き起こした者が見えないこと、3つ目には被害者にとってふって沸いたように起こっていること。天災と人災の差は、2つ目の何者か人が引き起こしているか否かにある。核兵器による破局の可能性以降、こうした天/人の差が接近してきたといえるだろうか。この出来事が「犯罪」でも「事件」でもおさまりが悪く「戦争」と呼んでも適切な感じがしないのは、こうした事情がからんでいるだろう。
私の友人は、今回のテロ事件とは別の問題として、最近の不況にからんで、今の企業競争が「勝利者のいない戦い、ルール無き戦い、単なる消耗」だと言っていたが、今度の出来事に対しても同じことが言い当たるのはどういうことだろうか。
書いている最中に、佐野さんのエッセイがアップされたとのメールが届いた。「われわれは誰をどのように悼むのか。自爆テロの若者を悼むのか、アメリカ市民を悼むのか、アメリカの報復を全面支持するのか、空爆されるであろうアラブ世界の市民を悼むのか。」。
ん〜、と思いながら読みつつ、端的にそんな自意識はありえないだろうと思う。それは、佐野さんも承知のうえのことだろう。
そういう自意識は、善くも悪くも「傍観者」であるがゆえに強いられる。被害者への悼みがあって、しかしそれが変に=偏に高じることが「自爆テロの若者」への憎悪へ向かう短絡に帰結すれば、もはや「傍観者」ではなくなる。
天災/人災の区別もさだかでなくなる出来事にあって、加害者/被害者といった区別が適当であるわけがなく、さしあたってわたしは「傍観者」の位置にあるには違いない。もちろん、「傍観者」もまた即「加害者」になりうるが、第三の位置であることからしか受け止めることができないし、すべきでもないだろう。

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