#2001.07/16
地に足のつかない時代の作法は?(2)
IT化によって会社がどう変わるかといったテーマでテレビ番組をやっていた。
必要な情報が早く届くようになったという意見が多いとともに、それに次いで何も変わらないという意見も多いとのこと。このへんの反応は、まずは使うことが当たり前になってきた(だが、まだ使い方が定着はしていない)という状況を反映しているように思われる。
それに対して、意見の決定が早くなったとか、意見をいう機会が増えたと答えている人は少ない。
また、3メートルのところにいる上司ともメールでやりとりするようになって口を利く機会が減ったとか、色々言うので混乱するようになったといった意見もある。
発言の媒体(たとえばメール)自体が同じ形式であるということは、立場の違いを払拭する効果をうむ。それゆえに、発言そのもののボーダーレス化がすすむ。しかし、他方で、百出する発言を集約することの困難が発生する。
近代社会のあり方そのものが、こうしたボーダーレス化、発言の平準化を促進する方向で進んできたということができるだろう。そして、近代社会では、あらゆる次元で「法」の下での平等を組織原理としてきたと言えるとすれば、「法」自体の自己目的化が様々な次元で問題を発生させること(組織維持の自己目的化、悪平等、目的論的な暴力等々)こそが、近代社会が抱えた問題だといえるだろう。たとえば、そのことの一つが、いわゆる「お役所仕事」「官僚制」というものだ。
今問題になっているのは、そうした「法」の下での組織の自己目的化であり、そのことの「構造改革」をIT革命によって打破するだ、ということになる。
しかし、問題はこの先にある。つまり、末人 letzt menschen の時代の「名指される「趣味」」(モリオカ日記#2001/7/12)というのは、どういう位相にあるのだろうか? つまり、「およそ生とは、趣味や嗜好をめぐる争いなのだ!」(『ツァラトゥストラかく語りき』)ということの問題性がどこにあるのか? ということである。「趣味」は、誰が提示したものであるかということとは関わりなく、また、何を提示しているかとも関わりがない。それは、選んでいる当の本人にとってもわかっていない、にもかかわらず、集約する寄り代となってしまうような「趣味」にはらむ問題。

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