2001.07の「ヤマザキ3行日記」

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#2001.07/31    クオリティ・オブ・ライフ

 良く晴れて暑い日が続いていると思ったら、今日だけでも、大阪では中学生が部活中に8人倒れ、梅田では電車に乗っていた乗客がやはり8人倒れたというニュースが流れていた。いずれも、貧血などで、熱中症らしいとのこと。灼熱地獄なんて言い方も冗談でもなくなっているかのようだ。

 モリオカのいう「クオリティ・オブ・ライフ」のはらむ割り切れなさ(「モリオカ日記」2001/7/31)は、つまり、実存がつねにすでに投企された現実存在であって、そもそも「生まれる」こと事態の不条理と見合っているわけだろう。
 「義務教育」であるとか、未成年の喫煙・飲酒の禁止、薬物の禁止などは、個人の生を「健全」に保つための更正が目的であるよりも、社会秩序の安全性、つまり、わけのわからない行動をする者をできるだけ減らすための法律だということができるだろう。近代法でいう「人間」とは、自律的な思考能力・行動力を持つことが前提とされているわけだから、そういう「人間」であれということが、権利として認められるのであるとともに、一方で強制されていることでもある。「義務」教育というのはそういうことだと言える。たとえば、「奉仕活動」の義務化という発想も、法の要請する「人間」たることを強制しようというところに根があるだろう。
 「権力」が、個々人の「権利」を認めるとともに、その権利に見合った「人間」であることを強制するという両義性。いうところの「割り切れなさ」とは、この両義性に懐胎するものだといえると思うがどうか。
 自由で自律的な存在として「人間」が定義されているかぎり、「自殺」は「人間」が「自由」であることの究極の権利であるから、権力は「自殺」を禁止することができないはずである。が、たとえば、脳死を可能にする医療技術の誕生は、生きることが実は社会の仕組みによって強いられていることを露見させたとも言える。ここに、安楽死というかたちで自殺を制度的に認めるという発想がうまれるのだし、尊厳死という発想が否定できない主張として発想される。
 社会秩序の保全にとって問題とならない立場にある末期患者へのマリファナの処方は、社会にとって「安全である」とみなされ、きめられた手続きをとることを条件に、「限りある生の質」は個人の権利として認めるということになる。だとすれば、これは「権力」の両義性に適合していることになるのではないか。

 ところで、今、世の中に蔓延しつつある無気力とストレスは、行使すべき「権利」の使い道がわからないままに、積極的に生きることにも、積極的に死ぬことにも意欲がわかないまま、どろ〜んとして、ここに・そこに"いる"ことが、何かしら強いられていると感じられているところに起因するように思われる。
 権力の両義性と現代的な生の状況とをたしたところに構想されているとおぼしき映画をビデオで見た。「バトル・ロワイヤル」(2000年12月16日公開 上映時間113分 2000年・日・東映 R-15 原作:高見広春 監督:深作欣二 )である。
 1クラス分の中学生が無人島でそれぞれに異なる武器を一つずつ渡されて、3日のうちに最後の1人になるまで殺し合いをするというゲームを、法律(新世紀教育改革法・通称【BR法】)によって強いられるという設定の話である。このお話は、"他人の生きる権利を侵さない限りでの自由の権利"という現行の法律をちょうど裏返した設定である。(他人の生きる権利を奪う限りで自由に生きることが認められる)。
 この設定は、積極的に生きることにも、積極的に死ぬことにも意欲がわかないまま"いる"だけで、「良い大人」(=法の要請する「人間」)になろうとしない中学生に対して施される「教育改革」として発想されている。破壊される<人間>の異様な姿は、逆説的に、"人間"たりえているというかのようである。
 ゲームは、3人が生き残っている段階で打ち切られるのだが、残ったうちの1人が無人島から帰っていく時に死に、残された男女一対は指名手配されてしまう。最後に映される、肩を寄せ合って世の中から隠れながら互いの愛を確かめ合うかのように歩んでいく男女の古典的な「人間」の姿は、権力に抗して互いの主体的な愛を守るというロマンチックな19世紀的人間像に落ち着いていく。

#2001.07/24    真夏の出来事

 関東・中国・四国では、8月上旬にも水不足になるかもしれぬとの気象情報。7月に入ってほとんど雨らしい雨が降ってない。なんでも、東京では、人為的に雨を降らせようとする計画もあるらしい。そんなことがホントにできるのかどうかしらぬが、いよいよもってお天道様に刃向かうようになったか。

 2日ほど前の明石の花火大会で、人ごみのなかで倒れた10人もの高齢者と子供がなくなったというニュースが流れている。
 すし詰めの歩道橋で身動きつかなくなった人の群れの上に、天蓋にのぼった若者が飛び降りたともいう。

 花火大会がそこら中で行われている。昔からこんなにたくさんやっていたのだろうか。かつて、私は、花火を見に行ってビール呑んだら、小便がしたくなってトイレを探したのだが、なかなか見つからず、帰り道でえらい苦しい思いをしたことがある。それ以来、行く前からトイレの心配をするようになり、とんでもない人混みに巻き込まれそうな花火大会は敬遠している。その点、仙台市街の広瀬河畔で行われる花火大会は、大学のキャンパスから見られたし、大学のトイレもあったからよかった。(しかし、10年いて、たった一度しか見に行っていない)。
 花火は、(実際、お祭りの一環として行われる場合もあるように)、お祭りである、というよりも、イベントであると言った方がぴったりする(もちろん、誰にとっても、すべてが、ではないだろうが)。「お祭り」という言葉にまつわる共同体の意識はなくなっているし、年中行事的な特別さもなくなって、年がら年中そこら中で行われている平板な「イベント」の一つに堕しているといえそうだからだ。
 それでも、やはり、人混みのなかをがやがやと見に行くのでなければ、楽しみは半減するのだろうし、イベントにもまたお祭りと通底する意義があるのだろう。いったい何事だろう。

#2001.07/23    

 おそるべき熱帯夜である。昼間のように蒸し暑い。(エアコンあってよかった。)
 一仕事終えて、焼酎の水割りを机の脇の台のうえに乗せ、ちょっと手を伸ばそうとしたら、指に引っかけてひっくり返してしまった。水浸し。まだ読んでない田口ランディ『モザイク』は、表紙がすっかり焼酎づけである。
 こころなしか、アルコールだから乾きがはやいような気がするのが救いといえば救い(のような気がしている)。うぅ。

#2001.07/22    戦後、社会派の小説(水上勉『飢餓海峡』)

 暑さですっかりメロメロである。
 毎日35度くらいまで上がっている。せめて、30度くらいまでになってほしいものだ。
 私の脳漿は、すでに溶けて流れ去り、消えてなくなってしまっている。

 水上勉『飢餓海峡』を読み終えた。
 その前に、映画(昭40/1965)をビデオでみた。三国連太郎が犯人の男、左幸子が娼婦のヒロイン、高倉健が刑事の役で登場する。
 小説が出されたのが、昭和38(1963)年。話の時代背景は、昭和22〜24年のいわゆる戦後の混乱期。実際に、昭和29年にあった青函連絡船沈没事件とその前日に北海道岩内でおこった大火をモデルとしつつ、時代背景は戦後の混乱期に設定されている。
 連絡船の大量死のどさくさに紛れて、戦後の新しい時代を生きようとする男。その男から金をもらったことで借金を返済して故郷を離れ、混迷した東京で生きる女。
 過去を背負った人間が、顔をもたない大衆の群れの中から焦点を当てられて、汽車・船といった今となっては過去の遺物に属する旅の手段によって点綴されながら、過去と現在とを結びつけられ、固有の生を浮かびあがらせていくといった"社会の構造と人間の生き様"を描くという遠近法。
 このような"ヒューマンな眺め"としての遠近法は、もちろん、眺める側に立ったときにはじめて浮かび上がる遠近感である。この小説では、終始局外の視点から物語られ、後半で追求される大罪人樽見京一郎の過去は、捜査する刑事の視点から浮き彫りにされていく。
 こうした遠近法は、いわゆる松本清張に代表される社会派の小説に通有の遠近法であるといえそうだ。

 ちなみに、映画・テレビで何度か撮影されている松本清張『砂の器』は、昭和36(1961)年の出版。

#2001.07/16    地に足のつかない時代の作法は?(2)

 IT化によって会社がどう変わるかといったテーマでテレビ番組をやっていた。
 必要な情報が早く届くようになったという意見が多いとともに、それに次いで何も変わらないという意見も多いとのこと。このへんの反応は、まずは使うことが当たり前になってきた(だが、まだ使い方が定着はしていない)という状況を反映しているように思われる。
 それに対して、意見の決定が早くなったとか、意見をいう機会が増えたと答えている人は少ない。
 また、3メートルのところにいる上司ともメールでやりとりするようになって口を利く機会が減ったとか、色々言うので混乱するようになったといった意見もある。

 発言の媒体(たとえばメール)自体が同じ形式であるということは、立場の違いを払拭する効果をうむ。それゆえに、発言そのもののボーダーレス化がすすむ。しかし、他方で、百出する発言を集約することの困難が発生する。
 近代社会のあり方そのものが、こうしたボーダーレス化、発言の平準化を促進する方向で進んできたということができるだろう。そして、近代社会では、あらゆる次元で「法」の下での平等を組織原理としてきたと言えるとすれば、「法」自体の自己目的化が様々な次元で問題を発生させること(組織維持の自己目的化、悪平等、目的論的な暴力等々)こそが、近代社会が抱えた問題だといえるだろう。たとえば、そのことの一つが、いわゆる「お役所仕事」「官僚制」というものだ。
 今問題になっているのは、そうした「法」の下での組織の自己目的化であり、そのことの「構造改革」をIT革命によって打破するだ、ということになる。

 しかし、問題はこの先にある。つまり、末人 letzt menschen の時代の「名指される「趣味」」(モリオカ日記#2001/7/12)というのは、どういう位相にあるのだろうか? つまり、「およそ生とは、趣味や嗜好をめぐる争いなのだ!」(『ツァラトゥストラかく語りき』)ということの問題性がどこにあるのか? ということである。「趣味」は、誰が提示したものであるかということとは関わりなく、また、何を提示しているかとも関わりがない。それは、選んでいる当の本人にとってもわかっていない、にもかかわらず、集約する寄り代となってしまうような「趣味」にはらむ問題。

#2001.07/09    地に足のつかない時代の作法は?

 教えていると、学生が名指しされることに対して敏感なような気がする。社会的にみてどう変容しているかは、狭い範囲の経験にもとづいて語るわけにもいかないが、一方で、旧来の「みんな仲良く」といった身体作法が失効し、他方で「それぞれ」が尊重されようとしていながら、「それ」と名指されることの重圧に耐えられないといった現象がおこっているように思える。
 ネット上では、書き込みやメールでハンドル名をつかうことが増えている。発話をめぐる近年の最大の変化は、匿名性というよりは、匿名性の増大と表裏の名前の氾濫であり、発話する身体の非在という現象であろう。以前、ページ検索をしていたら、たまたまある掲示板が表示された。見ると、みな名字を(もちろん、たしかめようはないのだが)実名で記していた。しかし、そこは、ある研究会の掲示板で、そこに書き込んでいたのはどうやら医師たちなのだ。

 歴史的にみれば、情報の公開には、特権的な層による情報の占有が権力をもつことに対して、公共の場に情報をひきだし討議にかけることで批判し対抗するという意義がある。あるいは、公共の場での討議は、真理への階梯、妥当性の追求となると考えられた。
 だが、今おこりつつあるのは、情報の氾濫と多様な立場からの発話による複雑性の増大をいかに縮減するかということだろう。「あなたは?」と問われて答えることが求められる前に、さしあたって、情報の縮減の技法が必要だ。でも、縮減の方法は?
 ことわざや紋切り型というのは、一種の情報を型にはめて理解する方法の一つだが、こうした理解の型そのものが、理解をさまたげる幻想効果をもつことは言うまでもない。あるいは、イメージによる縮減。むしろ、こういう縮減の方法そのものに焦点をあてて批判的に受容する能力の方が求めれられる。しかしながら、実のところ、そういう能力を万人に求めることは不可能に近いことのようにも思える。

 名指しされることに敏感な感性というのは、ある意味で、共通の基盤と信頼関係の地平が成り立っていないことによるのであり、なにも今どきの子の惰弱を意味しているわけではないだろう。


 モリオカがいう(モリオカ日記#2001/7/9)歴史教科書問題をめぐる「代行」システムの戦略問題も、一種の縮減の戦略の問題だといえるな。「歴史」も、どういう立場からを第一の問題として、如何に語られるかを第二の問題として議論されているということか。

#2001.07/07    夏空

 ひさびさに野球をした。体うごかん。確実に筋肉痛になるだろう。
 しばらくやらないと、遠近感覚がつかない。飛んでくるボールが不意に手元に届くといった感じなのだ。
 ともあれ、汗かいて、日に焼けた。

#2001.07/06    車内の風景

 昨日今日とひさびさの雨。
 この日記もちょうど1年経った。早いものだ。
 先日電車に乗っていた。床に座っている高校生の男がいた。膝上までズボンを綺麗に折り畳んでいる。暑いからなのだろうけれども、今時のはやりなのか、そんな格好のが3人くらいいた。
 独り言をいっている男が座っている。髪は綺麗になでつけてある。おもむろにポケットからお金を出して数えている。そのお金は綺麗に二つ折りである。透明なビニール袋を持っている。中にはマヨネーズだのといったスーパーでの買い物が入っている様子だ。
 目の前では、20歳くらいの男女が楽しそうに話をしている。
 出入り口では、高校生の女が腕組みしてたっている。
 帰りの電車で駅につくとき、ふと気がつくと、目の前を擦過していく窓から、電車を待っている女が数人皆腕組みをしているのが見える。同じところに立っている男性がみな腕を垂らしているのと対照的だ。カバンを肩から提げているのと、手にもっているのとの差だろうか。
 どうということもない風景である。こういう風景も十年単位くらいで見ると変わっているものなのだろうか。

#2001.07/03    暑さと眠気

 実に暑い日が続いている。
 かつて、保健体育の授業で、「人の体というのは、暑すぎても、寒すぎても眠くなるものなのだ」という話を聞かされたことがある。吹雪の山中で「寝ちゃだめだ」などと言われているシーンがあるが、あれも寒さゆえに眠りにおそわれているのだということだった。
 しかし、暑いと眠れないというのが、なんとなしの生活実感のようにも思えるふしがあるので、何とも言えないところがある。それでも、この季節ある瞬間に急に重い眠気におそわれることがあるのは事実だ。呼吸しているだけでも汗がでて体力を消耗しているであろうから、自然と体力を消耗していて疲れがでるということでもあるか。

YAMAZAKI Yoshimitsu
E-mail:yymzk@fo.freeserve.ne.jp