[No.004] 2000.6/27
宮本輝『月光の東』
(2000・5 中公文庫)
山崎義光
パキスタンのカラチで自殺を遂げた友人の残した「月光の東まで追いかけて」という言葉をきっかけに、中学校時代の初恋の女性・塔屋米花の思い出がよみがえり、杉井純造は、その後の米花を探りはじめる。自殺したサラリーマン加古慎一郎の妻美須寿もまた、夫の魅せられた女性を憎悪しながらもその謎に引きつけられていく。……
杉井純造の語る奇数章と、加古美須寿の日記の形式で物語られる偶数章が、交互に配されながら、二人のパースペクティブを通して、塔屋米花という謎の人物の輪郭が浮き彫りにされる。
塔屋米花の形象は、典型的な、「おぞましきものの美学化」であり、あらん限りの被差別イメージが活用される。塔屋一家は、近づきがたいアウラを放ちながら各地を転々と流浪するマレビト的家族であり、美貌を持ち蠱惑的なヒロイン米花は、周囲から羨望されるとともにルサンチマンの標的ともなり、聖別される。娼婦めいた米花の形象は、このような被差別イメージの延長で「自然と」受け入れられる。こうした手法は、渡部直己が論じたように部落差別の文学的手法としてなじみのモノであることが知られている。
杉井の友人にして、美須寿の夫である加古慎二郎の自殺を契機に、二人は謎の空白を埋めようと、知られざる過去を知るために生きはじめる。その核にあるのが呪文の如き「月光の東」である。意味不明な非在の場所を指示するこの言葉は、非在であるがゆえに魅惑し、それに憑かれることになる観念的なフックである。このフックに吊り上げられるように、電報・手紙・電話といった通信手段や、電車・タクシー・飛行機等の交通手段で結びつけられたネットワークによって、家庭や仕事の日常的人間関係とは異次元の、過去に足場をもった人間関係の〈世界〉が開示されていく。
「月光の東」に導かれて、謎を知るために杉井と美須寿は行動をはじめるのだが、知るために開始された探求が続けられ、過去が次第に明らかにされていく間に、知ることそのものへ憑かれた欲望が溶解し、杉井は探求の過程で知り合う合田澄江や柏木と、美須寿は古彩斉・唐吉叔父と交流するなかで、過去の記憶のなかに固着した〈観念〉から癒され、現在の〈関係〉そのもののうちに生きることへと転位しはじめるとき、登場人物たちは再生するとでもいうのだろうか。「月光の東」の呪文は、効力を潜めていき、人物それぞれは、新たな目で受け入れられた各々の生活世界へと回帰していく。当の米花も「月光の東? 私はそんな言葉知らない」と言うことになる。
知るために生きるという、目的と手段の関係が逆転して、知るという目的そのものが手段にすぎず、気がついたら、喪失そのものが再生への促進剤となっているというわけである。
ところで、美須寿は、塔屋米花が何ものであるかに興味の中心を強く起き始めるとともに、夫の自殺の心因には、ほとんど興味を持っていないかの如く、この物語のなかでは忘却されていくのだが、これはどういうことなのだろうか? 海外単身赴任した中年サラリーマンがどうして自殺することになるのだろうか?
おそらく、それはどうでもいいことなのであろう。どうでもいいことになるということ、つまり〈観念〉に憑かれて思い悩んだ末に死ぬなどという生き方には、誰もいつまでも同調していたりしない。〈関係〉の中で今を生きることこそが現代を生きる作法なのだとでもいいたげに、登場人物たちは癒されていく。
だいたい、中年になってまで中学時代の初恋に胸ときめかせていられるというのは、かなり薄気味の悪い事態ではないだろうか。
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