2000.8の「ヤマザキ3行日記」

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#2000.8/28

 「百年物語」(だったか)とかいうドラマをやっていた。全部をちゃんと見たわけではないが、脚本は橋田某だそうだ。
 第1回は、大正から昭和にかけてが背景である。百姓の息子が地主の娘に「身分違いの恋」をするのだが、娘は家の借金のために成金男に請われて身売り同然の結婚をする。百姓息子は、娘に言われたことがきっかけで絵描きになることを思い立ち上京するのだが、生活のために株屋になって、絵を忘れ金をもうける。女は、夫が妾のところに出て家に寄りつかず、ペットのように飼われるだけの冷え切った結婚生活に耐えられなくなる。夫の子を宿すが、別の男の子供ではないかと疑われたあげく、愛のない子を産むのを拒んで中絶するのだが、発覚して堕胎罪により入獄。出てみると夫は財産を失っており、そこではじめて、素顔の告白を受け、満州に行くという夫とやりなおす。題名は「愛と憎しみの嵐」。しかし、愛も憎しみも去勢されてちっとも「嵐」ではなく、希薄化されたかつての昼ドラ調。どうせやるなら、裏切りに裏切りが積み重なり、嫉妬と愛の炎に燃え立つ登場人物たちのドロドロした愛憎劇を期待したいところなのだが、そうではない。お話そのものは救いようがない。主演は松嶋奈々子で、彼女もたいがい大根(というより、せりふまわしが単調)だけども、ささやかな救いでもあり、今回の場合、役者が可哀想だ。
 しかし、どうして大正前後くらいのお話は、不思議なくらい、どっかで聞いたような「嵐」のお話になってしまうのか。『金色夜叉』的、『婦系図』的、デデンデンデンのドロドロ愛憎劇は、嫌いじゃないのだが、中途半端な「良識的」ドラマになってはつまらない。そうじゃないなら、希薄化された定型ドラマはやめてほしいものだ。とりあえず、橋田なんとかの脚本はダメだろう。

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#2000.8/27

 Jリーグ・オールスターには、森○先生と一緒だった(「モリオカ日記」#2000/8/27)ようだが、かつてヤクルト戦を見に行って、持病のギックリ腰になったと言っていたが、今回は大丈夫だったのだろうか。
 野球のナラティブについては、渡辺直己だか、スガ秀実だかも書いてたよな。東北大の図書館にあったような記憶があるのだが気のせいか? 
 大阪に来ると阪神ファンしかいないのかと思っていたが、そうでもなく、近くのスーパーでは、堂々と巨人グッズをプレゼントするといってキャンペーンしていた。それでも客が減ったりするわけでもなさそうだ。
 プロのスポーツ選手というのは、エイリアン alien (適当な言葉がうかばないが)なんだよな。近づきがたく、しかるがゆえに、神々しく、また、負けると罵倒したくもなる。素顔のスポーツ選手などというのが、どこか堕落した感じを与えたりしないだろうか。

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#2000.8/24

 アニメのキャラクターについて語る資格は、私にもないのだが、世代や性別といったカテゴリーに偏向しない公約数的な属性に照準しながらキャラクターが設定され、公分母的なテーマで仕立てられることが、成功しているゆえんであるにちがいない。つまりは、社会の酵母とでもいうべき神話や伝説なわけだから、宮崎アニメが遠野物語の方へ近づいたりするのもうなずける。
 モリオカ(「モリオカ日記」#2000/8/24)もいうように、なるほど、だいたいアニメのキャラクターというのは、10代以下の〈子供〉だけども、"ちょっと男の子みたいなところのある女の子"であって、美男・美女的な、性別意識を強く印象づけ、特定の世代にだけうけるキャラクターは、全般に受けなくなっているのだろう。それはまた、家族が〈子供〉を中心にして構成されるようになっていることとパラレルでもあるに違いない。お兄ちゃんと妹の組み合わせも、規範的カテゴリーを超越するといえそうだ。つまり、男女でありながら性の意識は兄妹であることによって後景化される。「〈兄弟〉と〈姉妹〉の間の〈対なる幻想〉は、自然的な〈性〉行為に基づかないからゆるくはあるが、また逆にいえばかえって永続する〈対幻想〉だともいえる。そしてこの永続するという意味を空間的に疎外すれば〈共同幻想〉との同致を想定できる」(吉本隆明『共同幻想論』)ということか。蛇足ながら、こうした兄妹幻想の伝説として、宮沢賢治の兄妹や、三島の兄妹が思い出されるなぁ。
 テーマ的な公分母は、自然と人間との共生。物語のダイナミズムは、この世を総体として相対化する異界との往還・交歓。
 宮崎アニメはそうした公約数的キャラクターと公分母的テーマをうまくついているということなのだろう。
 ところで、最近ファミリー・レストランや観光地、自治体などなどで、イメージ・キャラクターをさかんに作っているよなぁ。寝屋川市のマスコット・キャラクターは、「はちかづきちゃん」だそうだ。

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#2000.8/19

 休みが長くなってしまった。しばらく書かないと、書くことを躊躇してしまうようになる。それゆえ、しょうもないことでも思い切って書いてしまおう。

 今朝こんな夢を見た。応接間のようなところで談話をしている。数人の人と談話しているのだが、そこにいるのは若○○という、少し前に引退した力士である。となりには、女性が座っている。何を話したのかは覚えていないが、お茶を飲みながら、にこやかに談笑しているのである。次の場面では、死んだ元力士と女性の死体が横たえられたところに居合わせている。場所はそれほど広くない屋内のようなところだ。しかも、奇妙な死体で、二人は両手首を長さもまちまちに切り取られて、それが体の横に並べておかれている。足首もあったやもしれぬ。私は心中のようなものだろうかと、ぼんやり考えている。そこで夢は終りである。しかし、考えてみれば、二人とも両手首がない心中というのは考えにくい。あるいは、他殺であったやもしれぬ。
 さて、目がさめてみてから、とくに寝汗をかくでもなく、目覚めが悪いわけでもない。むしろ、すっきりしているくらいなのである。夢を見るのは(さめて覚えているのは、か)、私にとってめずらしいことである。若○○が出てくるのも変だ。最近テレビで見た等の思い当たるフシもない。もちろん、とくに相撲ファンであるわけでもない。これまで自分が見た夢に、テレビでしか見たことのない人物が出てきた記憶もない。だから何だということもないが、印象的であったからここに記す。

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#2000.8/10

 私の書いた(#2000.8/9)意味での「〈ナルシシズム〉及び〈メタ・メッセージ性の消去>」は、「商品としての〈プライベート・スタイル〉が、(大文字の言葉が効力を失った時代に相応しく)巧妙にそのメタ・メッセージ性を隠蔽しつつ流通していく」と言い換えられるのではないか、というモリオカくんのまとめ(モリオカ日記#2000/8/10-2)は、メタ・メッセージ性がなくなっているわけではないという意味で、「隠蔽」とも言えるが、隠蔽というよりは戦略的なものだといった方が合っている気がするな。
 オタクとの違いもその辺にあるだろう。ナルシスにはエコーがつきものだが、オタクにはエコーはいないだろう。追記で、「両者は、「コミュニケーション能力の不足自体のパブリシティ」という〈メタ・メッセージ〉性をひそかに持っているかそうではないかという点において截然と分かれる」と言っているのを言い換えれば、オタク的コミュニケーション不全症候群の場合には、同様の趣味を持つ者同士は惹きつけ合っても、その他に対しては魅惑的ではない。それに対して、キムタク的深田的ナルシシズムは、その発話パフォーマンス自体に、ある種の魅力のアウラを伴っている点では異なるのではないか。

(書くことを思いついたら、思いついた範囲でだけ、ダダダダダ〜と打つから、場合によるが、中身を書くのは15分くらいなもんだろう)

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#2000.8/9

 前々から気になってたところだけども、キムタクのドラマやCMの語り口を見ていると、妙に私的で親密な語りかけの調子を感じる。といっても、それは見ているこちら側へのではなく、路上で二人の世界に入り込んだカップルを見たときのような、当人同士の、である。エステのCMの場合などは、ビデオでとられているかのような設定と画像で、それがCMであるからこそなおさら、視聴者側へのメタ・メッセージ性をそぎ落としたような感じを受ける。
 それとはまた異なるけれども、最近のドラマではどうなのかわからないが、少し前に見た深田恭子のドラマでのせりふまわしは、妙にモノローグ的な感じを与え、誰に向かって喋っているのか、焦点のぼけた感じを受けた。
 これらが、ちょっと印象的なのは、端的に言えば、見ている側(木村拓也の場合)、語りかけている相手(深田の場合)をかっこに入れてしまっているような、語っていることそれ自体への注目を促しているという意味で、ナルシスティックなところがあるからではないだろうか。
 こうしたスタイルが出てきてウケることも、何かしら直感的にわかる感じもするのだが、そう思うのも、現在一般化しているコミュニケーションの構造と連動しているからだろう。どこから、誰が、誰に向かってということがハッキリしなくなる、マス・メディアやインターネットを介したコミュニケーションが常態化し、比較的私的なWeb上での仲間同士の多数相手の発話であっても、誰が見ているか分からないまま漠然とした相手に対して情報発信するコミュニケーションの形式が浸透している。そういう条件が、訴えかける(これは押しつけがましさを伴うだろう)ことよりも、自らに惹きつけるクールな情報発信スタイルを印象的にする土壌になっているのではないか。。。だから、この日記もまたそうであるかどうかはさておき、Webページで日記の形式がウケたりもするのではないのだろうか。

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#2000.8/7

 私の『パニック』への好意的評と、村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』への低評価(「モリオカ3行日記」#2000/8/7)は、書かれた年代の時間的な差を勘案しているところがある。が、それにしても確かに、意味をめぐる強度をどう構成しているかという点で、よく似たテーマを持っている。ダンスしながら「こんなことしても意味ないよ」とカッコよくだが自嘲的につぶやく〈無意味発見型〉の物語と、「意味はないが、かといって他に意味のあることがあるわけじゃないから、たいくつしのぎにやってる」という<無意味前提型>の物語という差くらいはあるかな。

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#2000.8/4

 開高健「パニック」(新潮文庫)を読んだ。え! なんでそんなの読んでんの!? などとは聞かないものだ。大して意味はない。この小説は、昭和32(1957)年に発表されている。
 ある地方で、鼠が大量発生する予測を知った地方公務員が、それへの対策を早く打たなければならないことを上司に訴えるが、握りつぶされる。そして、鼠が大量発生し、その地方はパニックに陥ることになる。
 この小説が今読んでも読めるのは、地方行政の現場を背景としながら、システム化された社会を攪乱する自然現象の突発が、いわゆる、パニックものの映画がウケルのと同様のストーリーであるということ以上に、そうした映画にありがちな英雄譚的な意味づけに堕することなく、なぜ、命じられたのでもなく、また周囲からいい目で見られもしないパニックへの予防や対策に打ち込んできたのかと問われた主人公が、次のように答える点にあるのだろう。

「今度の災厄は君がどうジタバタしたってかないっこないんだよ。最大のエネルギーを使って最大の損失になるんだ。これほどむだなことはない。おまけに、上層の奴らはこの事件に手を焼いて責任を全部君にかぶせてくるかもしれないんだ。そこを、君、どう計算しているの?」
「たいくつしのぎですよ」

 「立身出世」や「使命」といった「意味」に殉じる大義名分を語るではない、「たいくつしのぎですよ」という答えは、強度にのみささえられているわけだ。

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#2000.8/1

 月が変わったので、色だけ変えてみた。どうだろうか。

 さて、保坂和志が、意外と読まれている気配が感じられるか(モリオカ#2000/8/1)。文庫になったものも増えてきたようであるし。何でも野○啓○先生もご推輓だそうじゃないか。畑中氏も読んでおった。
 保坂和志よりも町田康と言うのが、「心」から「それから」「門」へと肌合いが変化していると言う(モリオカ#2000/7/29)のとダブって聞こえたが、それも、「何も起こらない不在の〈事件〉をモティーフとしてズルズルズルズルとお話が続いてい」きつつ、「その不在の〈事件〉が脱中心化され」るかどうかという違いのことだったのかな? 

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Yoshimitsu YAMAZAKI
e-mail:yyamazaki@eastmail.com