2000.7の「ヤマザキ3行日記」
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#2000.7/31 前に(#2000.7/20)それとなく触れたことだけども、「家族」のイメージとして汎通的なというか、範型的な形態は、父母娘息子の4人の核家族だ。例えば、ファミリー・カーのCMを思い起こしてみる。あるいは、ドラマを思い起こしてみよう(今のNHK朝の連ドラ「私の青空」がそうだ)。小説でももちろんよろしい。身近にも、まぁ、結構いそうである。手元に、家族を論じた山田昌弘『近代家族のゆくえ 家族と愛情のパラドックス』(新曜社)があるが、その表と裏にはハートマークの中に、やはり如上の4人家族の絵が描かれている(裏のは二つに割れてるが)。もちろん、こんな構成の家族が日本の核家族の中でどれだけの割合を占めているのかはわからない。が、イメージとして思い描かれる「家族」の範型をなしているのだろう。 |
#2000.7/30 HPを作成していると、ずいぶんとブラウザやPCの設定で見え方が違うのが、身をもってわかる。作ってみてから、複数の機種とブラウザで試してみてはじめて、「ここは、色と文字サイズの設定してなかったのだな!」であるとか、「このタグは、このブラウザでは、向こうのとちがって、こう表示されるんだな」などなど、見え方の多様性が物理的に反映されていることが、わかるわけだ。解説書通りには、反映されないし、ギチギチに色や文字の大きさの要素を指定してさえ、PCに依存している点が多い。 |
#2000.7/26 モリオカくんと谷崎研究会に行って来た。『瘋癲老人日記』と『陰影礼讃』をそれぞれ中心とした2つの発表があった。最中、私は『瘋癲老人日記』を読みながら独り心で笑っておった。 予ガ我ナガラキタナラシイ皺クチャ爺デアルコトハ自分デモヨク知ッテイル。夜寝ルトキ義歯ヲ外シテカラ鏡デ見ルト実ニ不思議ナ顔ヲシテイル。上顎ト下顎トニ自分ノ歯ハ一本モナイ。歯茎モナイ。口ヲ結ブト上唇ト下唇ガペチャンコニ喰ッ着キ、ソノ上ニ鼻ガ垂レ下ガッテ来テ顎ノ方マデデ落チテ来ル。コレガ自分ノ顔ナノカト呆レザルヲ得ナイ。人間ハオロカ、猿ダッテコンナ醜悪ナ顔ハシテイナイ。コンナ顔デ女ニ好カレヨウナンテ馬鹿ナコトヲ思ウ訳ハナイ。ソノ代リ、全クソンナ資格ノナイ老人デアルコトヲ自分ミズカラモ認メテイルニ違イナイト、ソウ思ッテ世間ガ安心シテイルトコロガ付ケ目デアル。附ケ目ニ乗ジテドウスルト云ウ資格モ実力モナイケレドモ、安心シテ美人ノ傍ニ寄ルコトハ出来ル。自分ニハ実力ガナイ代リニ、芙女ヲ美男ニ嗾ケテ、家庭ニ紛紜ヲ起サセテ、ソレヲ楽シムコトハ出来ル。…… 困った爺であるが、こういう強度が、町田康に通じるからこそ、モリオカくんは評価の目を向けるのであったあろう。 会が終ってからは、京都で呑んだ。5時半ころから飲み始め、8時過ぎには、富山の出張から帰ってきたモリオカくんと同期の古キチも加わって、実に痛快に呑んだ。次第に壊れはじめたモリオカくんは、店を出たところで、ぐでんぐでんに酔っぱらっており、私と古キチくんはしゃーないなぁとこぼしながら、ストリート・ミュージシャンの女の子に歌を歌ってもらいながら休憩し、モリオカくんを車に乗せてホテルへ送りだした。阪急で帰る古キチくんとも別れた私は、心地よい風の吹き渡る四条の橋を渡って、京阪電車に乗り込んだ。幸い終電までは今しばらくあるようであった。 |
#2000.7/25 朝のNHKニュースで、「科学技術者の倫理」について、工学院大学学長大橋秀雄氏なる人物が登場して、価値ある失敗と価値のない失敗について語っていた。価値のある失敗とは「予想外」で「新しい発見」につながる失敗であり、価値のない失敗とは、「無知」「不注意」「ポカ」「サボり」による失敗であると語っていた。なんだか、どっかで聞いたような、今さら言われなくとも当たり前だと、つい口をついて言いたくなるような話であった。 |
#2000.7/23 読書録No.6に書きました。 |
#2000.7/22 ビバリーヒルズ白書シリーズもずいぶん長く続いている。日本でこれほどロングランで制作されたドラマはないだろう。ドラマではないが、サザエさんならあるか。 |
#2000.7/20 今日も実に暑い一日で、昨日に引き続き、夕立があった。晴れているのに突然降り始めたかと思うと強風とともに台風かと思うほど強く雨が降って、しかし、30分くらいであがってしまった。あの時間に雨宿りのできないところを歩いていた人がいたら、いかに無念であったことだろう。 夜、飯を食いながら、たまたまやっていたNHKのドラマ「エイジ」をみる。郊外の住宅地に住む一家の、中学生の息子エイジが主人公。〈幸福な家族〉をつくることに懸命な母親と高校教師の父親、高校生の娘と、14歳の息子エイジの4人家族。サラリーマンと専業主婦に娘と息子の4人家族。いかにもな〈家族〉の類型である。(読書録No.4に書いた宮本輝『月光の東』の加古美須寿の一家も、サラリーマンと専業主婦に息子と娘の4人家族だったなぁ)。エイジと同じクラスの優等生の友達が、通り魔事件の犯人として逮捕される。エイジは、自分も同じような犯罪をおかす可能性を自分自身に対して感じている。通り魔少年は、最後に保護観察処分のまま学校に帰ってきてメデタシメデタシとなる。「家族らしさ」というイメージの制度に対しても異和をもち、家族を演じることに疲れて、だからといって、実存の明瞭な形式をもたないために、自分が嫌いになり、何者にでも――通り魔にでも――なりうると感じることに自らたじろぐという10代のお話。 |
#2000.7/19 夕方、職場にいると、突然夕立が降り始めた。青空が見えているのにゴロゴロ鳴って、雨も激しく降り始めた。ここ(寝屋川)は、毎年この季節、何度かかならず夕立があって、どうかすると停電したりする。仙台では、こんなに夕立は降らなかった気がするが、やはり、生駒山をひかえているからだろうか。 |
#2000.7/18 サウナのごとき体育館に2日間も閉じ込められて、やや夏バテぎみ。 |
#2000.7/15 現代の最大公約数な原則(倫理)は「自由」であり、強者による弱者への、多数派から少数派への抑圧を含んだ、あらゆる既成の可視的不可視的な枠組みへの批判が依拠するのは、これだといっていいでしょう。近代(モダン)の公約数ですね。 いらぬ"大風呂敷な物語"が長くなったけども、町田康が「モダンな思考を支えるメタフィジックスを脱臼させる可能性を無限に持ち得ている信ずるが故に、今回の受賞を祝い、同時に受賞作以外の持ち得るキャパシティを広く発揮して欲しい」(モリオカ日記 #2000/7/14)という場合も、そういう含意でもって理解していいのだろう? 話はとぶけども、昔は、金属バットで息子が親を、親が息子を殴ったものだが、最近の岡山バット事件は、"学校"のクラブの後輩を殴り、ついでに"家"の母親を殴り殺していた。気になったのは、ああやって、あっちもこっちも「二重に」殴って逃げ場のない絶望への逃走に帰結していたこと。 そういえば、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』の場合も、最後につかわれていたのが金属バットだった。 (少し長くなったが、これから泊まりの出張のため、明日の分も書いたということにしよう) |
#2000.7/14 この日記もそろそろはじめて10日になる。そこで新装してみた。 町田康が「きれぎれ」で芥川賞とりましたな。松浦寿輝と。 |
#2000.7/13 梅雨明けしたのかどうかさだかでないが、最近蝉が鳴き始めている。夏である。 |
#2000.7/12 鍵が壊れて、しまりのない部屋に苦しめられるというのも、いかにもな体たらくで、深刻だけども、実にやるかたなく無力で、馬鹿馬鹿しい、が、だからといって決定的な事件であるわけでもない。 |
#2000.7/11 今日は「読書録」No.5に書いたので、おやすみ。 そういえば、先週、町田康『くっすん大黒』読んだ。それについては、モリオカくんに、「読書録」に書いてもらおう。 |
#2000.7/10 ここに、オシ猫、押野武志氏著『宮沢賢治の美学』(翰林書房 2000.5)がある。今日はこれへのオマージュ。先輩だからでもあるが、それだけでもない。はしがきと終章の最後を駆け足で読んで、「いいぞ、アニキ! ブラボー!」とつぶやいたところだからだ。。。!? |
#2000.7/9 三島は、新しいものに興味を持つ人であったようだから、WEBには興味をもったには違いないが、公開された場と私的な場との区別であるとか、現実と虚構の区別だとかという、境界や形のハッキリしない世界は、嫌悪したのではないだろうか。三島は「音楽」に馴染まないのだと語っているけど、それはある意味で非常に象徴的なことかもしれないな。 |
#2000.7/8 「構造に支配された(殉じ得た)実存」(or「構造に抵抗し得た(から逃亡した)実存」)というのは、もうとっくにドラマにならなくなっているし、そういう戦略では世の中を語れないということなんだろうね。三島の死なんかが象徴的なのだろう。選挙のときに、誰に投じるかなどと真剣に考えて投票することが、何か不可能に近いし、リアリティを感じられないしね。要するに、「Modern Times」は強力だというよりか、そこが生活の場なんだよな。 そうそう、三島の新資料が出る。全集は11月から刊行され始めるみたいだ。 (七夕が8月になっているかどうかは、わからんなぁ。しかし、交野に「天の川」が流れておって、そこは町おこし的に7月に七夕やっているとニュースでは言っとった。) |
#2000.7/7 雪印のバイ菌入り牛乳を飲んで食中毒をおこした人が1万人以上になると報道されている。原発事故でもそうだったが、この種の「事件」は、組織・社会の構造の上で発生した事件だといえるんだろう。グリコ森永事件や、先日の参天事件などのように、故意に引き起こされたものではなく、外部機関からは見えにくいところでの製造工程で、あるいは、管理者側から遠い末端での怠慢と不注意とから発生している。そして、実際に知らずに飲んで被害を被った人たちは、販路にたまたまひっかかったためである。しかも、この事件の効果は、不買行動の現象に発展している。雪印は、大阪工場のみならず、東北北海道を除く全国で、商品を店頭から撤去されているらしい。今回の事件がなくても、こういう可能性は常に既にあるのだから、これらは、同様の事態の発生可能性が、マス・イメージとして頒布される構造の上で広がった波及効果だ。 |
#2000.7/6 にわかHP作成者の弁。HPに、フレームを使うのは、あまりよくないとのことで、見栄えよりしっかりとした形式、世界へ発信している自覚が必要などと言われたりもするが、自宅で飼っている猫の情報を垂れ流しているHPに、そんなことを要求してもはじまらん。そんなページは、そもそも人が見に来る事を想定していないし、むしろ来てもらわなくてよいだろう。なんでもかんでもワールドワイドでなどと言っているのは、普遍主義的ピューリタニズムというか、HTMLラディカリズムとでもいうか、いささか過剰な意識であるように思われる。 |
Yoshimitsu YAMAZAKI
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