2000.7の「ヤマザキ3行日記」

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#2000.7/31

 前に(#2000.7/20)それとなく触れたことだけども、「家族」のイメージとして汎通的なというか、範型的な形態は、父母娘息子の4人の核家族だ。例えば、ファミリー・カーのCMを思い起こしてみる。あるいは、ドラマを思い起こしてみよう(今のNHK朝の連ドラ「私の青空」がそうだ)。小説でももちろんよろしい。身近にも、まぁ、結構いそうである。手元に、家族を論じた山田昌弘『近代家族のゆくえ 家族と愛情のパラドックス』(新曜社)があるが、その表と裏にはハートマークの中に、やはり如上の4人家族の絵が描かれている(裏のは二つに割れてるが)。もちろん、こんな構成の家族が日本の核家族の中でどれだけの割合を占めているのかはわからない。が、イメージとして思い描かれる「家族」の範型をなしているのだろう。
 それとして自覚されていないところで、しかし、かなり広汎に、イメージとして根付いた範型というものがある。こういう暗黙知を、経済的精神的に安定を保ち社会システムの自律を構成する、不可視の制度といってもいいし、装置といってもいい。感性として浸透しているような制度。
 小説がある種の批評性を担う仕方の一つは、そうした制度(装置)に対して、いかにカウンターを喰らわせるかという点にあるのは言うまでもない。しかし、身に沁みたイメージに対する感性を鍛え直すのはまた、容易なことではない場合が多いんだろうなぁ。

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#2000.7/30

 HPを作成していると、ずいぶんとブラウザやPCの設定で見え方が違うのが、身をもってわかる。作ってみてから、複数の機種とブラウザで試してみてはじめて、「ここは、色と文字サイズの設定してなかったのだな!」であるとか、「このタグは、このブラウザでは、向こうのとちがって、こう表示されるんだな」などなど、見え方の多様性が物理的に反映されていることが、わかるわけだ。解説書通りには、反映されないし、ギチギチに色や文字の大きさの要素を指定してさえ、PCに依存している点が多い。
 そうすると、「なるべくシンプルでどれで見ても違いが出にくいタグのみで構成した方がよい」と思ってみたり、「ここは、どうでもいいかな」等々、見ている側本位で作ることを考えることになる。自分が発信しているものが、相手によって見え方が違うことから、必然的に受け手本位になりやすく、作成者は――「受け手がどう見るか」よりも――「受け手にどう見えるか」への想定をしながらつくるという点が、印刷物などと違うところだろうか。(それともこれは、未熟な私にだけあることなのだろうか)。
 電子テキスト時代のエクリチュールがどう議論されているかには、私は暗いのだが、ハイパーテキスト云々もそうだけども、人によって受け止め方が違うこと自体が物理的にハッキリし、コミュニケーションの非対称性が前景化してしまう点で、書く行為に孕まれる意識の変化も大きいような気がするなぁ。でも、逆もありうるな。違いを統御できないんだから、最低限のルールさえ守って作れば、あとは見る方が勝手にするだろうというような。いずれにしても、情報が多様に受けとめられてしまうということが、当たり前の事態として認識されるようにはなるということだろうか。

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#2000.7/26

 モリオカくんと谷崎研究会に行って来た。『瘋癲老人日記』と『陰影礼讃』をそれぞれ中心とした2つの発表があった。最中、私は『瘋癲老人日記』を読みながら独り心で笑っておった。

予ガ我ナガラキタナラシイ皺クチャ爺デアルコトハ自分デモヨク知ッテイル。夜寝ルトキ義歯ヲ外シテカラ鏡デ見ルト実ニ不思議ナ顔ヲシテイル。上顎ト下顎トニ自分ノ歯ハ一本モナイ。歯茎モナイ。口ヲ結ブト上唇ト下唇ガペチャンコニ喰ッ着キ、ソノ上ニ鼻ガ垂レ下ガッテ来テ顎ノ方マデデ落チテ来ル。コレガ自分ノ顔ナノカト呆レザルヲ得ナイ。人間ハオロカ、猿ダッテコンナ醜悪ナ顔ハシテイナイ。コンナ顔デ女ニ好カレヨウナンテ馬鹿ナコトヲ思ウ訳ハナイ。ソノ代リ、全クソンナ資格ノナイ老人デアルコトヲ自分ミズカラモ認メテイルニ違イナイト、ソウ思ッテ世間ガ安心シテイルトコロガ付ケ目デアル。附ケ目ニ乗ジテドウスルト云ウ資格モ実力モナイケレドモ、安心シテ美人ノ傍ニ寄ルコトハ出来ル。自分ニハ実力ガナイ代リニ、芙女ヲ美男ニ嗾ケテ、家庭ニ紛紜ヲ起サセテ、ソレヲ楽シムコトハ出来ル。……

 困った爺であるが、こういう強度が、町田康に通じるからこそ、モリオカくんは評価の目を向けるのであったあろう。

 会が終ってからは、京都で呑んだ。5時半ころから飲み始め、8時過ぎには、富山の出張から帰ってきたモリオカくんと同期の古キチも加わって、実に痛快に呑んだ。次第に壊れはじめたモリオカくんは、店を出たところで、ぐでんぐでんに酔っぱらっており、私と古キチくんはしゃーないなぁとこぼしながら、ストリート・ミュージシャンの女の子に歌を歌ってもらいながら休憩し、モリオカくんを車に乗せてホテルへ送りだした。阪急で帰る古キチくんとも別れた私は、心地よい風の吹き渡る四条の橋を渡って、京阪電車に乗り込んだ。幸い終電までは今しばらくあるようであった。
 電車が動き始めるとにわかに目が回り始めて、気がつくと次の駅で降りていた。呑んだ帰りの電車で、気分の悪さを我慢できなくなったのは、数年前、寒風に紙くずがカラコロと吹き転がされるのを聞きながら、終電間近の、年始で誰もいないJRお茶の水駅のトイレで吐いて以来のことである。2度くらい、下りては休み下りては休みしながらガンバッテおったが、ある瞬間、耐える間もなく、そこへゲーッと一発ぶちまけてしまった。イヤー実に電車の中でやったのは初めてである。やってみると痛快ですらある。水を入れすぎた風船がはじけてしまったように、吐き気は一度でおちついた。
 ゲロを吐くシーンを小説に書いているものは少ないが、大江健三郎『個人的な体験』と、これをパロディとしたところのある奥泉光『バナールな現象』がある。前者は予備校での講義中に教壇で、後者は予備校の仕事に行く前のJR三鷹駅のトイレ。ともに、妻の妊娠中のオトーサンになりかけた男である。いわゆる「妊娠小説」ですな。大江は、サルトルの『自由への道』やら『嘔吐』からヒントを得ていたのでもあったろうか。自分の全存在が吐き気の苦しみに化した実存的なゲロ。
 幸い乗客は少なかったが、同じシートに座っていたうら若き女性は即座に隣の車両に移って行った。やってもうたとの安心感でもあろうか、事後はさっきまでがウソのように楽になった。周囲の目も気にならない。というよりも、気にできないくらい意識は朦朧としていたわけである。実に痛快なるゲロ・テロールであるっ! などと独りごちながら電車をあとにした。

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#2000.7/25

 朝のNHKニュースで、「科学技術者の倫理」について、工学院大学学長大橋秀雄氏なる人物が登場して、価値ある失敗と価値のない失敗について語っていた。価値のある失敗とは「予想外」で「新しい発見」につながる失敗であり、価値のない失敗とは、「無知」「不注意」「ポカ」「サボり」による失敗であると語っていた。なんだか、どっかで聞いたような、今さら言われなくとも当たり前だと、つい口をついて言いたくなるような話であった。
 「科学技術者」にとって、これは当たり前な失敗の価値観であろう。だがそうすると、「雪印の事件などは価値のない失敗で、」とかたづけられることになる。実際、そう言っていた。しかし、臨界事故や雪印もそうだが、実際に起きるタダナラヌ事件は、「価値のない失敗」によって起きている。あるいは、IT革命の時代には、末端ユーザもある程度のパソコンやインターネットの知識・技術がなければ使えないし、有効に機能しない。さらに、「無知」「不注意」は、弱者と強者の関係へと反映する。そう思うと、いうところの「価値」のあるなしが、技術的な高度化の基準に照らしての「価値」であるにすぎないことに改めて気付かされるとともに、科学技術が利用される運用の次元での「無知」「不注意」「ポカ」「サボり」による失敗こそが、今や問題とするに充分値する、対価の高い"価値ある失敗"なのだろうと思わざるをえない。
 これはちょうど、世界の政治的経済的秩序が、東西から南北へシフトしていることと近似している読書録No.6)。もろもろの西欧起源の近代的原理が脅かされるのは、そうした原理を受け入れること自体の拒否や遅れに、否応なく直面せざるを得ず、対応を迫られているという事態である点では、よく似ているわけだ。そう思うと、日本の国内にでも、国際的な地平にでも、どこにでも起こりうる"科学技術の南北問題"、"技術の政治化"こそ「倫理」として主題的に捉えることが必要なのではないのだろうか。

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#2000.7/23

 読書録No.6に書きました。

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#2000.7/22

 ビバリーヒルズ白書シリーズもずいぶん長く続いている。日本でこれほどロングランで制作されたドラマはないだろう。ドラマではないが、サザエさんならあるか。
 見ていてつらつら思うことは色々あるけども、「アリー My love」なんかもそうだったが、このドラマは、複数の中心的人物が出てきて、1回の放送の中で、二つ三つのエピソードが平行して進行していくところが特徴的だ。ビバリーヒルズで暮らす友人サークルが全体のまとまりを形成しているが、一つのまとまりとしての物語的因果性は希薄で、とくにブランドンが出なくなって以降、中心的人物もいなくなってきているし、平行して展開するエピソード間の主題的共通性も希薄になってきていると思われる。
 こういう形式のドラマが日本で作られないのは、なぜだろうか? 私が知らないだけだということもありそうだが、少なくとも定型的なパターンとしては定着していないとはいえるだろう。

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#2000.7/20

 今日も実に暑い一日で、昨日に引き続き、夕立があった。晴れているのに突然降り始めたかと思うと強風とともに台風かと思うほど強く雨が降って、しかし、30分くらいであがってしまった。あの時間に雨宿りのできないところを歩いていた人がいたら、いかに無念であったことだろう。

 夜、飯を食いながら、たまたまやっていたNHKのドラマ「エイジ」をみる。郊外の住宅地に住む一家の、中学生の息子エイジが主人公。〈幸福な家族〉をつくることに懸命な母親と高校教師の父親、高校生の娘と、14歳の息子エイジの4人家族。サラリーマンと専業主婦に娘と息子の4人家族。いかにもな〈家族〉の類型である。読書録No.4に書いた宮本輝『月光の東』の加古美須寿の一家も、サラリーマンと専業主婦に息子と娘の4人家族だったなぁ)。エイジと同じクラスの優等生の友達が、通り魔事件の犯人として逮捕される。エイジは、自分も同じような犯罪をおかす可能性を自分自身に対して感じている。通り魔少年は、最後に保護観察処分のまま学校に帰ってきてメデタシメデタシとなる。「家族らしさ」というイメージの制度に対しても異和をもち、家族を演じることに疲れて、だからといって、実存の明瞭な形式をもたないために、自分が嫌いになり、何者にでも――通り魔にでも――なりうると感じることに自らたじろぐという10代のお話。
 示唆的な内容はほとんど含まず、微温的なお話のまとめ方だが、現代的〈郊外〉社会化時代の問題の相貌を、教科書的に! 盛り込んだドラマになっていた。

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#2000.7/19

 夕方、職場にいると、突然夕立が降り始めた。青空が見えているのにゴロゴロ鳴って、雨も激しく降り始めた。ここ(寝屋川)は、毎年この季節、何度かかならず夕立があって、どうかすると停電したりする。仙台では、こんなに夕立は降らなかった気がするが、やはり、生駒山をひかえているからだろうか。
 ところで、その鳴ってる最中にべたついた手でもあらおうかと流しで水道の蛇口をひねった瞬間、黒いものがゴソッと動いた。一瞬のめまいで手に持った石鹸をとりおとし、フラフラと後じさった。ゴキである。
 こちらに来るに際して、何を怖れたといって"ゴキとの遭遇"をもっともおそれていた私は、「関西のゴキは関東以北とは種類が違って、色も大きさも違うし、よく飛ぶんですよ」と、嬉しそうにいらぬ講釈までしてくれた意地の悪いモリオカくんを憎んだものである。幸いこれまでみることなく過ごしていたのが、ついに今日の遭遇となった。しかし、冷静になって考えてみれば、あんな小さな生き物が噛みつくわけではなし、何をそんなに怖れることがあろう、畢竟、ゴキの文化的イメージを怖れているにすぎんとも思う。が、しかし、素手で掴んだ自分を想像しただけで気が遠くなるのは、そもそも恐怖というのが、幽霊がそうであるように、〈想像的なもの〉なのだと、ハタと気付いたら、どうやら夕立もおさまったようである。

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#2000.7/18

 サウナのごとき体育館に2日間も閉じ込められて、やや夏バテぎみ。
 16日の夜、私は和歌山で月食を見た。夜空の月が天の穴だとすれば、一瞬ふさがれた瞬間ということになるのだろう。息苦しい夏にふさわしいというべきか。
 こういう天体現象が、一種の啓示をもたらすことが、ままあるようで、かつてアルバイトで普通高校に行って教えていたときに、日食を見て宇宙に憧れたと語る日本人宇宙飛行士毛利衛のエッセイを読んだことがある。日食というのは、つまり、"天のウィンク"のことであり、超越論的な他者のそれに魅入られた偶然が、運命として感受されるというわけだ(と書いてあったわけではないが、そのエッセイは、日食を見たことが、宇宙飛行士になるきっかけとなったという内容であった)。

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#2000.7/15

 現代の最大公約数な原則(倫理)は「自由」であり、強者による弱者への、多数派から少数派への抑圧を含んだ、あらゆる既成の可視的不可視的な枠組みへの批判が依拠するのは、これだといっていいでしょう。近代(モダン)の公約数ですね。
 しかし、成熟した近代社会たる現代の問題は、文化的経済的政治的等々の初期状態の違いはなくならず、自由であろうとすること自体の実際的な困難も多く、原則的な自由が認められたところで、それぞれが自由であろうとしたときには(あるいは、単にそこにいるだけで)共約不可能な差異から軋轢と抑圧が生じる。つまり自由であることに「最終解決」はありえない。リオタール風にいえば、自由へのプロジェクトたるモダンが到達している「ポスト・モダン」の時代は、「抗争」こそが、〈問題〉として浮上するというわけだ。
 自由な世紀に不自由なあなたは「もっと自由であれ」ということ自体が当為として抑圧にもなりうるんだし(宮台真司『自由な世紀・不自由なあなた』)、あるいはまた、自由であることを原則(倫理)とするがゆえに、第三者の審級を欠き共通の基盤のない共約不可能な場が現象するところでは、それぞれの立場は美的に演出されながら、抗争が暴力として現実化することにもなる。

 いらぬ"大風呂敷な物語"が長くなったけども、町田康が「モダンな思考を支えるメタフィジックスを脱臼させる可能性を無限に持ち得ている信ずるが故に、今回の受賞を祝い、同時に受賞作以外の持ち得るキャパシティを広く発揮して欲しい」(モリオカ日記 #2000/7/14)という場合も、そういう含意でもって理解していいのだろう?

 話はとぶけども、昔は、金属バットで息子が親を、親が息子を殴ったものだが、最近の岡山バット事件は、"学校"のクラブの後輩を殴り、ついでに"家"の母親を殴り殺していた。気になったのは、ああやって、あっちもこっちも「二重に」殴って逃げ場のない絶望への逃走に帰結していたこと。
 かつてしばしば起こっていた家庭内暴力のツールとしての金属バットは、それが、一人で遊ぶ道具ではなく一緒にやる相手が前提とされており、おそらくはお父さんや友達との遊び道具であって、いわば、親和的なコミュニケーションのツールであったはずである。近くの公園か、学校のグラウンドか、高度経済成長期以降の〈郊外〉型家族幻想の幸福をつくりあげるささやかな道具立ての一つであったとも言えるだろう。そうした小さく幸福な共同体を構成する媒介としての金属バットが、一転して、〈郊外〉型家族幻想のまどろみに凄惨な一撃を加えていたわけだ。今回の事件の場合は、家の周囲よりはもう少し社会性の強い学校の野球部の部員が使っていた金属バット。重量も1Kg近くはあるだろう。かなり立派なものであったと思われる。
 あらゆる生活の場が見えにくい抑圧の場として感覚されているのはもちろんそうだろうが、直接のきっかけになった「坊主にすること」が十代の若者の間で一種の流行にもなっている昨今、坊主にすることは学校=社会制度的抑圧の記号であるよりは、クラブの集団内における状態圧力がいじめ的に特定個人に集約していたように思えるし、母親を殴ったことについて、建前にせよ本気にせよ「親に迷惑がかかる」という倒錯的な弁明を聞くにつけ、自由な社会の中で不自由にしか振る舞えない彼が暴力という決定的なかたちを選んだのでもあったろうか。

 そういえば、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』の場合も、最後につかわれていたのが金属バットだった。

(少し長くなったが、これから泊まりの出張のため、明日の分も書いたということにしよう)

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#2000.7/14

 この日記もそろそろはじめて10日になる。そこで新装してみた。

 町田康が「きれぎれ」で芥川賞とりましたな。松浦寿輝と。
 うわさ(#2000.7/12)をすれば何とかで、芥川賞もさることながら、今日私のもとへ Anet という、アドレスを無料でサービスしているところから、アンケートに答えてくださいとのメールが届いていた。「あなたがふだん思っている"痔"についてのイメージ」について。こちらで受け付けているとのこと(終了したとのことなのでリンクは外しました。#2000.7/18)

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#2000.7/13

 梅雨明けしたのかどうかさだかでないが、最近蝉が鳴き始めている。夏である。
 仙台から大阪に来て思うのは、実に暑いというのもさることながら、実に臭いのである。私の実家は、千葉県船橋市で、すぐ近くを、万葉以来その名のある真間川が流れている。清流からは限りなく遠く、現在はタダのドブと化しており、夏は異臭を放っている。しかし、その場合、においの発信源はハッキリしている。大阪は、季節にかかわりなく、食べ物屋の前を通りかかって、「うまそうな匂いだ」と感じることよりも、「臭い」と思うことの方が多いのだが、夏は異臭を感じることがさらに多くなる。O-157や食中毒が多いのも、全国でも指折りに夏日の多い土地柄だからでもあろうが、それ以上に、ゴミ処理システムの整備が遅れてでもいるのか、あるいは、無精な土地柄だからでもあるだろうか。それとも、たんに、私の気のせいなのだろうか。
 そういえば、東京に住む友人は、電車で通勤していると、飛び込み自殺が実に多いことに驚くと言っていた。「事件」の後に行きあうと、異臭が漂っているとのことである。今や、においが、「体験」のリアリティを特徴づける核なのだということだろうか。

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#2000.7/12

 鍵が壊れて、しまりのない部屋に苦しめられるというのも、いかにもな体たらくで、深刻だけども、実にやるかたなく無力で、馬鹿馬鹿しい、が、だからといって決定的な事件であるわけでもない。
 ようするに、漱石が悩んだ痔のようなものであろう。死なないけれども、継続的で持続的に苦しい、実存的な! 痔の方が、よほど深刻だ。
 つまり、町田康の描く世界は、このへんの振幅だろう? ちがうかなぁ。

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#2000.7/11

 今日は「読書録」No.5に書いたので、おやすみ。

 そういえば、先週、町田康『くっすん大黒』読んだ。それについては、モリオカくんに、「読書録」に書いてもらおう。

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#2000.7/10

 ここに、オシ猫、押野武志氏著『宮沢賢治の美学』(翰林書房 2000.5)がある。今日はこれへのオマージュ。先輩だからでもあるが、それだけでもない。はしがきと終章の最後を駆け足で読んで、「いいぞ、アニキ! ブラボー!」とつぶやいたところだからだ。。。!?
 ことのほか、「文学」のイデオロギー性を告発しているかのごとき短絡的スタンスや「文学」否定的な論調の強い中で、「文学は決して消滅などしないし、たとえ汚辱にまみれていたとしても、やはり文学を擁護したい」と、あっさり言ってくれているところが、いいのだ。だいたい、大学改革をはじめ「文学」否定の制度的圧力が強まる中で、場所と文脈こそ違え「文学」否定の論調に与するなんざー、ある意味、一種のファッショであろう。それで、イデオロギー批判とはあきれたものだ。逆に、昔ながらの文学万歳主義に与するのは反動にすぎないのだし。オシノさんの、気負いも衒いもなく、飄々と「文学」を読んでしまう軽やかさとバイタリティーは、あいかわらずのようだ。
 以上、オマージュおわり。さて、ちゃんと読もうかな。

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#2000.7/9

 三島は、新しいものに興味を持つ人であったようだから、WEBには興味をもったには違いないが、公開された場と私的な場との区別であるとか、現実と虚構の区別だとかという、境界や形のハッキリしない世界は、嫌悪したのではないだろうか。三島は「音楽」に馴染まないのだと語っているけど、それはある意味で非常に象徴的なことかもしれないな。
 ハッキリとは知らないが、「電子計算機」が登場するのと三島が退場するのは、ほぼ同時期ではないだろうか? WEB上で小説の新しい方法を考えるようなことは、自分では、していない気がするんだよな。
 全集が出ることは、新聞には書かれていたけど、宣伝はまだ見ていない。装幀なんかは、あんまり変えない、ん、じゃない、かなぁ。

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#2000.7/8

 「構造に支配された(殉じ得た)実存」(or「構造に抵抗し得た(から逃亡した)実存」)というのは、もうとっくにドラマにならなくなっているし、そういう戦略では世の中を語れないということなんだろうね。三島の死なんかが象徴的なのだろう。選挙のときに、誰に投じるかなどと真剣に考えて投票することが、何か不可能に近いし、リアリティを感じられないしね。要するに、「Modern Times」は強力だというよりか、そこが生活の場なんだよな。
 だから、「悲劇の誕生」(ニーチェ)じゃなくて、「悲劇の終焉」の時代なんだし、「音楽」の方が示唆的な、の?、か?? そういやぁ、コンサートって、現代の劇場だしなぁ。三島風の隠喩でいうと、「音楽」は無意識の情動みたいなもののことになるが、「音楽」は社会を構成する、無意識とは社会のことだ、とでもいうべき、な、の?、かな?? 

 そうそう、三島の新資料が出る。全集は11月から刊行され始めるみたいだ。

(七夕が8月になっているかどうかは、わからんなぁ。しかし、交野に「天の川」が流れておって、そこは町おこし的に7月に七夕やっているとニュースでは言っとった。)

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#2000.7/7

 雪印のバイ菌入り牛乳を飲んで食中毒をおこした人が1万人以上になると報道されている。原発事故でもそうだったが、この種の「事件」は、組織・社会の構造の上で発生した事件だといえるんだろう。グリコ森永事件や、先日の参天事件などのように、故意に引き起こされたものではなく、外部機関からは見えにくいところでの製造工程で、あるいは、管理者側から遠い末端での怠慢と不注意とから発生している。そして、実際に知らずに飲んで被害を被った人たちは、販路にたまたまひっかかったためである。しかも、この事件の効果は、不買行動の現象に発展している。雪印は、大阪工場のみならず、東北北海道を除く全国で、商品を店頭から撤去されているらしい。今回の事件がなくても、こういう可能性は常に既にあるのだから、これらは、同様の事態の発生可能性が、マス・イメージとして頒布される構造の上で広がった波及効果だ。
 こうした構造的かつイメージにもとづいた事件に対して、警察の「事実調査」は、「証拠」集めをもとにして行われ、責任の追及は「経営者」に向けられる。構造を線と面でイメージするならば、事後的な対処は点で行われる。
 こうした事態は、もちろん、今にはじまったことではなく、交通・流通・通信の発達した近代的な現象だろう。たとえば、松本清張が積極的に小説で書いていた歴史・推理小説が思い起こされるが、個別に注視した真実の追究では、割り切れないのも道理だ。20世紀半ばに、「実存」がはやらなくなって、「構造」だなどといわれるようになったのも、こういう背景が作用してたわけか。

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#2000.7/6

 にわかHP作成者の弁。HPに、フレームを使うのは、あまりよくないとのことで、見栄えよりしっかりとした形式、世界へ発信している自覚が必要などと言われたりもするが、自宅で飼っている猫の情報を垂れ流しているHPに、そんなことを要求してもはじまらん。そんなページは、そもそも人が見に来る事を想定していないし、むしろ来てもらわなくてよいだろう。なんでもかんでもワールドワイドでなどと言っているのは、普遍主義的ピューリタニズムというか、HTMLラディカリズムとでもいうか、いささか過剰な意識であるように思われる。
 ところで、しかしながら、「うずまき」は、どういう来訪者を想定しているのか?このままでは、ワールドワイドで発信しているというには不適切な構成だろう。こんなことではいけない? 
 少なくとも、文学・思想懇話会のHPは、普遍主義、HTMLラディカリズムでいくべきか。

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Yoshimitsu YAMAZAKI
e-mail:yyamazaki@eastmail.com