|
#2002.04/29
イメージによる支配
鈴木宗男に端を発する議員の足の引っ張り合いがしばらく続いていた。いちいち言うほどのことでもないが、そこで取り上げられていたところの不正なるものは、これまでにもずっとあったことだろうが、それが足の引っ張り合いとなって、もっと肝要な問題が等閑にふされたり、事の軽重が無視されたりしていることの方が問題である場合にも、露出度の高さとそれに付随するイメージの駆け引きによって最悪の政略的泥仕合になる。かなりゲンナリする事態である。
地元(なんて言葉も、私にはかなり死にそうな言葉に思える)の名士が、権威をかさにのさばる「権威による支配」に変わって、皆々がタダの人扱いになることは、それはそれで望ましい事態であろう。しかし、世の中の仕組みに最良ということはありえず、つねに「前よりはまし」であるにすぎない。
今そこら中でおこっているのは、「イメージによる支配」であろう。
しかし、権威による支配においては、そこに具体的な身体(誰それという人物)が存在したのに対して、イメージによる支配にあっては、それを操作する人物は不明瞭である。隠れているというよりは、イメージの共同主観性によって支配されていると言った方がいい。
問題が生じると、当の問題に対する対処や制裁をとびこえ、その問題が光源(イメージ)となって、「問題」だというイメージを払拭するために、それに類する場所場所に、実態が無視されて監視の目と力がはたらき、イメージの修正のために実効的だと見做される修正のための権力がはたらく。そういうことを身近に見聞・体験することしばしばである。
権威による支配を是正し、皆々タダの人である社会をよしとするのであれば、そのばあい、権威を背後に控えないイメージによる支配もまた避けがたい事態である。だとすれば、今度はイメージによる支配に対する闘争が必要になろう。
ある種の支配的イメージにあてはまらない、もう一つの事態・可能性を提示すること、イメージによる支配の暴力を指摘して覚醒をうながすことはもちろんであるが、そういう対抗的な方法自体が、ほとんどの場合、イメージによる対抗であらざるを得ないところが、難しいところだ。
|