2002.03の「ヤマザキ3行日記」

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#2002.03/18    自殺人口

 記事としては半年以上前の昨年8月のものだが、最近ネットで見つけた記事に、自殺者数を報じたものがあった(asahi.com)。それによれば、全体で3万人強で、ここ3年連続3万人をこえているそうだ。
 「年代と原因・動機でクロス集計すると、「健康問題を動機とする60歳以上」が1949人と最も多いが、2番目は「経済・生活問題を動機とする50歳代」が1253人で前年より10.3%増えた」とのことである。
 記事が焦点をあてているのは、「経済・生活問題を動機とする50歳代」で、実際増加率も高いとのことだが、もっとも多いのが「健康問題を動機とする60歳以上」だということに、驚きというほどの意外性はないものの、これがいったい何を意味しているのだろうかと考えると、思いは複雑だ。
 2050年には、4人に1人は高齢者になると言われている。
 脳死・臓器移植の議論で話をしていると、制度上の問題、一般的な議論においては、生命の尊厳の観点から反対すべきだとの意見を退けにくいと言いつつ、自分自身の問題として考えると、脳死は死として自分は処置してもらってかまわないと言う人が多いように思う。私の聞いた範囲でもそういう答えがしばしば返ってきたし、そう言う気持もわかる。端的な話、自分で自分のことが処置できない状態になれば、人に迷惑をかけることになるのだから、それなら死として処置してもらった方がよいと思うというわけだ。これも「自分のことは自分で」という、一種、広義の「自己責任」の論理の範囲にあてはまると意識されているのだろう。そこには、経済的な問題とともに、現在の生活圏の状況(家族・地域社会の現状)などがあるだろう。もちろん、それに随伴して生死をめぐる思想がかかわっている。
 「臓器移植」推進の立場がイデオロギーとして優位に立つのは、こうした状況に対して、それを「もう一つのいのちを救う」という大義名分で裏うちしていることにある。しかも、その場合の救われるべきいのちは、「幼いいのち」であったり、「若いいのち」である。
 一般的な感覚として、こうした表象-論理をおしとどめるための論理は、なかなかみつからないだろう。
 いのちに対しても、つねにすでに、確実に軽重が計られているし、取引がなされている。
 私の感じる思いの「複雑さ」について、そのひっかかりについて言えば、「何の」ためなのか、「何の」役に立つことがよいのかについて、あいまいにしか成り立ちえない、語り得ないにもかかわらず、「ためになる」「役に立つ」ことが、これほど求められている現在に対する複雑さなのである。

#2002.03/13    黙らずにクレームはつけるべし

 こんなことを書いていいものかどうかとも思ったが、ガマンがならないので書いてしまおう。
 引越しのため、これまでのADSLの契約を解約し、業者も変えてY社と契約した。最近「10営業日で開通」キャンペーンをしているあそこである。
 私の電話の新居での開通が2月22日なのに、19日にはADSLの工事完了の通知が届いた。早いもんだとその時点では思っていた。ところが、モデムが引越ししてからも届かない。
 そこには、私自身のミスがあった。住所の番地を書き落としていたのである。気づいてすぐに通知を出した。それが引越し当日2月23日のこと。それから、数日を経てから、番地が落ちていましたとメールで連絡がきた。それにももちろん即座に返信を出した。そしてさらに数日後、今度は携帯の留守電に「住所の最終確認のご連絡をいたしました。後日またご連絡いたします」と入っている。ここに来て、「後日に連絡ぅ! すでに3度間違いの連絡をだしているのに”」と、生来穏やかな性格の私も! キレてしまった。少々長いメールで、正確な住所を記し、指示通りにすでに連絡を数度にわたって出している事などを記して出した。もちろん文面は慇懃に。
 しかし、待てど暮らせどモデムは届かない。その後、さらに未着の連絡を出したりなどして、ようやく3月12日になってモデムが到着。私のミスがあったにしても、2週間は長すぎる。
 やれやれと思って、モデムをつないだが、しかし、つながらない。説明書を見て、テストをしたがやはりダメである。サポートセンターに電話。10分くらい待たされてようやく出た。
 事情を説明したところ、NTTの局内工事が正常に終っていないものらしいとのこと。「工事の確認と対応には1週間以上かかる」とぬかすしまつなのである。
 結局未だに開通していない。開通するまでにほとんど1ヶ月近く待たされることになる!
 このトラブルへの弱さは何事だろうか。

 引越しをめぐって、ずいぶんたくさん業者に文句を言った。文句といっても、丁寧に事情を説明し、対応してほしい旨、物腰柔らかに「お願い」しているのであるが、そのように言えば、たいてい親切に応接してくれていた。たとえば、引越し業者などは、口コミの宣伝にも気を遣うのであろう。
 Y社のように、暖簾に腕押しのようなケースもあるが、こういうクレームは、是非言うべきであると思うようになった。
 私などは、大変口下手で、気も弱く押しも弱いので、なかなかに勇気がいったものだが、それでも言うことによってはじめて向こうの対応も変わってくる。最近メディアをにぎわしている某国会議員は、処々方々でどなりちらしていたようであるが、そういうことではなく、言うべきことはきっちり言うことが、お互いにとって、(というより今の場合は消費者たる立場にとって)、よい結果をもたらす。
 こういうことは、とくに大阪だからというものでもなかろう。
 引越し屋ばかりでなく、電気屋などでも、最近は買ったあとに、アンケートなどを寄こすことが多い。そんなときは、気づいたことをきっちり書くべきなのだと今回の事で思うようになった。
 アンケートも、ある意味、そこで何も書かなければ、業者にしてみれば、すべてがうまくいっていることの証言を受け取っていることになり、消費者にとってみれば、仮に不満があってもなかったことを自ら認めてしまうことになる。気になったことは、たとえ対応を要求するほどでなくともきっちり言っておくべきなのだろう。
 だいたい相手となる業者の側も、店頭で売る者、営業で来る者、電話で受け付ける者、実際に作業をする者など、皆違う人たちであるから、個対個の関係でのコミュニケーションとは異なる。あっさり、しかしきっちりクレームをつけるべきなのだと、今回の引越しでは、今更ながらではあるが、社会勉強した。
 しかし、苦情の受付をする仕事をする人は、大変だろうと、これまたしみじみ思った事である。

#2002.03/04    引越し

 先月末、引越しをした。
 考えてみると、これで8回目くらいの引越しだが、本格的に引越し屋に頼んでの引越しははじめてだった。
 あれやこれやとトラブル続きで、順調というわけにはいかない。
 築20年にならんとする中古賃貸マンションだったせいもあって、給湯器は使えないから取り替え、水漏れはする、風呂場の換気扇はゴミがつまっているだの、あれこれ不具合が見つかるたびに管理している会社の事務所に連絡し、引越しでは業者が来たのが夕方で、大急ぎでの作業をよくがんばってくれたが、エアコンの取り外し取り付けの業者が来ないだの、洗濯機の水の取り入れ口が折れたりと、なんやかんやちょこまかしたトラブルが絶えない。
 それでも、致命的なトラブルには出会っていないだけ、よしとしよう。
 荷物もだいたいおさまってみると、どういうわけか、不思議と、なんとなくではあるが、前からこんなところにいたような気がしてくるから変なものだ。といっても、実際のところは、未だ身体化されていない。

 久々に、やや落ち着いてニュースを見たら(前のところでは映りが悪かったテレビが、ここへきてましになったのは収穫だ)、昨年5月弘前での武富士放火事件の犯人がつかまったとのことである。
 青森県浪岡町に住む40代の男で、家のローン、ギャンブルや知人の借金の肩代わりなどでできた借金の返済に窮していたとのことだ。周囲の人からは、人付き合いもきちんとしており、意外な印象の様子。事件後も仕事をしていたようだ。
 動機はありふれていると言えば言えるが、「罪と罰」のような苦悶というのは、誰にもおとずれるものではないということが歴然としてきたのが、20世紀の発見だったのではないかと思わされる。
 一方で、そうではなく、少なくとも日本においては、「罪」の意識なるものこそが、一時の輸入意識だったのかもしれないと考えさせられもする。近頃、どうもそう思わされる出来事が多いような気がするのだ。

 借りた部屋のガスの開栓にきた業者いわく、「この部屋の前の借り主は、ガスを止められたまま出て行ってますねぇ」とのこと。何があったものやら。

YAMAZAKI Yoshimitsu
E-mail:yymzk@fo.freeserve.ne.jp