#2000.12/25 生・活力
安吾が今読まれてしまうのは、なぜか。 それは、現在のわれわれの生活様式を支える社会がのっとったイデオロギーと親和的だからにちがいない。
多くの日本人は、故郷の古い姿が破壊されて、欧米風な建物が出現するたびに、悲しみよりも、むしろ喜びを感じる。新しい交通機関も必要だし、エレベーターも必要だ。伝統の美だの本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。(坂口安吾「日本文化私観」)
よく知られた一節だが、これを解説したような「現代社会の理論」の一節がある。
生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちと一緒に笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。このような直接的な歓喜がないなら、生きることが死ぬことよりもよいという根拠はなくなる。
どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごとき歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。歓喜と欲望は、必要よりも、本原的なものである。
必要は功利のカテゴリーである。つまり手段のカテゴリーである。効用はどんな効用も、この効用の究極仕える欲望がないなら意味を失う。欲望と歓喜を感受する力がないなら意味を失う。このように歓喜と欲望は、「必要」にさえも先立つものでありながら、なお「上限」は開かれていて、どんな制約の向こうがわにでも、新しい形を見出してゆくことができる。(見田宗介『現代社会の理論』岩波新書)
安吾のいう「生活の必要」とは、「エクスタシーの微粒子」「歓喜と欲望」は、つまり、温泉につかって「高森原人」を呑みながら語り合うことのうちにさざめいているそれも含めた、生を活気づける「欲望」のことであったろう。
こうした欲望をシステムに組み込むべく、未来を先取りして組み込んだ現在があらゆるシステムの範型となる。保険やクレジット、返済義務のある奨学金などをあげてもよいのだが、そういうわかりやすい事柄以外にも、親(父)を中心とした家族から子を中心とした家族への変容も、経済的経験的過去の蓄積を保有する親から、未来の可能性を担保した子へと中心が移行していると言えるし、それは学校教育の在り方にもまた同様の変容を看取できるだろう。学校の勉強は将来のためだったのである。そう、だった、のである。
伝統や歴史の年輪をもったものを規範としていただく様式から、未来の可能性を基点とした様式への移行は、しかし未来の可能性のよろこばしさを担保にするわけで、先が見えないときには機能しなくなる。進学が将来の生活を保障しなければ、学校秩序の効力も半減する。良い学校を出て良いところに就職し夢だったマイホームを手に入れて幸せな家庭生活をもつという物語がほとんど成立しなくなっている現在、中学校や高校から進学指導が抜け落ちたらいったい教育はどうなるのかということが今問われているが、それは未来という担保の信頼性の低下とも言えるだろう。だから、未来の可能性を担保にしたシステムも効力を失うほかなく、将来必要だから勉強するという論理が無効化して、楽しいから勉強するという論理が要請されるのは必然的である。
それゆえ、この不況の今こそ、未来にも過去にも支えられることのない境を「堕ちよ、生きよ」という無頼の論理、突き放された現実を「ふるさと」だという安吾のことばが読まれて近しい気がするのでもあろう。今ここがふるさとと思いきること。
もはや、過去に根ざした現在も、未来に根ざした現在も失効しているなら、今による今を生きることの生・活力をどこからくみ出すか。しかし、そんなことは問うても無駄なのかもしれない。掬い上げようとするそばから、抜け落ちていくのが欲望なのだから。
モリオカも、近頃ようやく「生・活力」が湧いてきたものか、日記も再開したようであるな。行方不明にはなれぬから、「私は我慢しています」(「ひかりごけ」)。 [トップにもどる]
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