2000.11の「ヤマザキ3行日記」

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#2000.11/30   

 ようやく『三島全集』第1巻が届いた。もう第2巻が出るっつーのに。注文したのは、職場に出入りの○善という本屋で、職場から発注したのではあるが、Webで注文しても2〜3日で届けてくれる時代に、3週間はかかっている。なんたる怠慢! 
 ともあれ、開いてみると、戦後の長篇小説から配列されているのだが、旧全集より目新しいところは創作ノートである。『盜賊』の創作ノートのコピー版(非売品だったと思う)などがある。コピー版はすでに持っていたが、異稿の方はお初。ノートに書かれた構想から大きなズレがあることはもとよりだが、三島は後になって書き換えたりすることはほとんどなく、異稿が残っているのが目にされることなどほとんどなかったはずだ。主人公が恋する女性に接吻したりお触りしていたなどといった事柄は決定稿には書かれていない。

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#2000.11/26   トップのページを変えてみた

 従来の表紙ページの前に1枚表紙を加えた。
 自分の"部屋ディレクトリ"を分割して利用するための処置。
 従来のページを最初に開きたいという方は、ブックマークを入れ直してください。よろしくどーぞ。

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#2000.11/23   ちょっとだけトーク 教育

 NHKで、日中ずっと村上龍と教員・親・文部省の役人などなどが集まって、これからの教育を語るという番組をやっていた。よくもまぁ、一日中やってるものだと思うが、つまりは、やる気を喪失し、未来のヴィジョンももてない世代をどう教育したらいいのかをめぐって議論をしていた。
 そこで語られていたことの主題は、地域社会は崩壊し、あるべき規範のようなものもあらゆる面で消失しつつある現在、未来のヴィジョンも持ちにくくなって、何のための勉強か、何のための学校か、何のために生きるのか、僕って何という泥臭い問いに、冗談(建前)にでも、これこれだと語れなくなってしまった現在、それに対して、どう応接し「教えたら」いいのかという問題である。それに対する答えは、自分で考えて決めるという能力そのものが、教育されるべきだという点に帰着していく。
 しかし、自主的であれと教えることには、教えられることの"受動性"と、学ぶことの"自主性"との間に、自己矛盾がつきまとう。言ったことをすべて守らせようとする現在の体制からほど遠いのは言うまでもないが、いちいち手を下し懇切丁寧に、マメに「教える」という方法そのものが見直されなければならないことも意味するはずである。
 こうした議論は、今どきの子供たちの話題として交わされているが、実際のところ、他者としての子供たちに困っているのは、教員と親の方で、受験と旧来の科目以外の枠をつかって好きに教えなさいと言われて、まともに授業を作れる人はどれくらいいるだろうか。
 どんな時代にも、問題児もいれば、社会現象として観察しうる問題はなくならないし、他方で、いつでも、どんな環境でもちゃんとやっていく奴はいる。が、そうではない多くの人たちにとってベターな環境は、どうあるべきかを考えるのならば、指導の仕方を変える云々であるよりも先に、カリキュラムと施設といったようなハード面から変えないと無理だろう。教員を評価しようとするより先に、少しは考えないと授業もできないようにした方が、教科書がないと授業の出来ない怠慢教師を駆逐するにはよく、教育現場にはびこる因襲を断ち切っていく促しになるのではないか。もとより、何をやっても、よくなることもあれば、悪くなることもあるが、学校だけが現行の社会システムから浮き上がった古き良き時代の因襲につかっていてはまずいのだから。
 いくらかなりとも説得力のある議論の大筋は、教えなくとも考えて行動できる、つまりは自主的に行動できる環境を与えることがベターな教育環境で、それにはどういうシステムと具体的な環境が必要か、現状からどう段階を踏んで変えられるかという点に帰着するだろう。

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#2000.11/20   

 政治の場面では、「変えなきゃ」ではなく、つねに「変わらなきゃ」という掛け声がどれだけ通るかどうかが決め手になると思うが、今回は「日本を変えたい」という掛け声が、そこまでの雰囲気づくりをする掛け声としては通用しなかったということか。古典的劇にしては、役者にも、シナリオの劇的さには欠けたということ? 
 しかし、いずれにしても、手詰まりな感は、否めない?
 しかし、こういう時に後釜として、石原なんとかが担ぎ出されなくてよかったなぁ。そうだったとしても今と大して変わらない?

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#2000.11/19   

 あっという間に、1週間以上が過ぎ。。。
 先日、気晴らしのつもりで、ヒッチコックの映画を見た。「引き裂かれたカーテン torn curtain」「サイコ psycho」。「サイコ」などは、観るのが夜中になってしまい、観る前からいや〜な予感がしていたが、やはり一瞬血のひくようなシーンが。
 非意味=不気味なショット(たとえば、顔)が、シュールで印象的(つまり怖い)だったりする。「引き裂かれたカーテン」などは、本編ではなく、最初のところで背景に人の顔が流れるのだけども、その顔がなんとも印象的だったりする。ヒッチコックがどう語られているのか(ジジェクが論じているのは少し読みかじっているけども)知らないけども、「前衛」が生きていた時代の作品なのだろう。しかし、今でも十分見れるなぁ。

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#2000.11/11   閉店時間

 昭和文学会の秋季大会に行った。夜21:30頃、JR京都駅で店に入ろうとしたら、みんな閉店時間で、どこも開いていなかった。駅周辺はそんなものか。道一つむこうにあいているところはあったので、そこに入ったが、それにしても、はやすぎねぇか。
 今回は電車内で何することなく無事帰宅。呑んで電車乗るのは、やっぱり嫌なものだ。

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#2000.11/08   我は何物をも喪失せず また一切を失ひ尽くせり。

 この日記も新装した。
 モリオカくんからは、早速「ノスタルジーだ」とメールをもらった。そういうモリオカくんは、手書きを人に見せられないからなのでもあるが、それはおいておいても、実に、グーテンベルグ銀河系の黄昏の時にあって、手書き(skech)―印刷(Book)に"イメージとして"固執するなんざぁ、どういうこっちゃ、自分自身は鉛筆の持ち方も忘れそうなくせに、といったありうべき批判は、つとに自覚するところである。そう、手書きや印刷物のすたれぬ利点にではなく、"イメージとして"固執することが問題なのである。あるいは、昨日閉鎖性を共示してしまうことが気にかかる云々と書いたばかりなのに、何をしておるかと言われるかもしれない。もっともである。まったくもって怪しからぬ。
 が、とりあえず、もうちょっとページ作成技術が向上するまでは、これでいいだろう。「<今ここ>の裡に「満足」と充足が見出されようとし」たときに失速した朔太郎的郷愁のポエジーが終ったところ(「萩原朔太郎に於ける〈家郷〉」『近代の夢と知性』所収)からはじまるのだから、ビギナーにはふさわしいとも言えるのだし。

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#2000.11/07   記録の技術と記憶

 HPを新装した。デザインが統一されてしまったぶん、テリトリーがはっきりしてある種の閉鎖性を共示してしまっているようなのが気にかかるが、しばらくは、Old Book スタイルでいってみよう。
 HPをいじってみたり、パソコンをいじってみたりしていると、実に記録をとることの難しさを感じる。このHPにしても、次々更新していくのに上書きをしてしまえば、あっという間に以前の形が消えてしまう。記録をすべてとろうとしたら大変な手間だ。HDを交換していてデータをすべて消してしまうなどということも簡単におこる。実に、「新陳代謝」が激しく、"機械"というより"生物"に近い感触はこんなところでも感じとれる。ロボットが生物に近づくという発想は、「ブレードランナー」にせよ、「エヴァンゲリオン」にせよ、今や驚くほどの発見ですらないが、身近なところでパソコンを介してもナットクされる。
 Webを介してのコミュニケーションは、基本的に文字を通じてコミュニケーションがはかられるのに、情報のスピードと量が飛躍的に増大すること、双方向性が高まることとともに、口頭でのコミュニケーションに近づいていくと指摘される。なるほど、記録を残すことの技術・物理的難しさをとってみてもそういえる。記録よりも記憶こそが問題になるのは、そうしたコミュニケーションの地盤そのものにかかわる問題だからだということがよくわかる。

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#2000.11/03   三島全集

 『決定版 三島由紀夫全集』(全42巻 新潮社 2000.1〜2004.5)のカタログが、雑誌『新潮 臨時増刊 三島由紀夫 没後三十年』(2000.11)に載っている。
 私は、注文したのだけれども、まだブツを見ていない。写真を見ると、箱は紅で本体黒。なかなか壮観である。三島の律儀さにならってであろうか、刊行も、律儀に1巻から42巻まで巻数の順に刊行されるようだ。41巻はCDで、講演や朗読、歌までも! 入るとある。さらに、全巻のオビからマークを集めると、「検索CD-ROM」をくれるらしい。中上健次の全集の時は、月報をまとめた1巻をくれたが、「検索CD-ROM」は画期的だし、嬉しい。
 「創作ノート」も、これまで、いくつかは『波』などに抄録されていたが、ようやく全面公開になるようだ。

 三島の話題をだしちまったので、何か書かないとカッコつかないから、ひとつだけ。
 ちょっと前に『禁色』を読んで思ったのだけども、性欲の弱い植物系男色とでもいうべきなのはありえないのだろうか? (そういう意味では、福永武彦『草の花』などは、貴重か?)。誰もが絶倫であるわけもなかろうに。となりにいい男がいるとすぐ触りたがったりするのを読んでると、そういう場所に来ているのだからともいえるのだろうが、女がとなりにいるからといって、ヘテロにしたってみんながみんな触りたがるわけでもないように、ホモだって、もちっと違うスタイルもありうるだろうに、と素朴に思った。抑圧されているだけに、チャンスには抑えられないものなのだとでもいうのだろうか。だいたい、三島は両方いけたはずで、そういうマージナルな意識のありようを、どうして書かなかったのか、ふしぎである。
 そういう意味では、『仮面の告白』などは、そうもありえた小説だったのかもしれない。(ちなみに、福永『草の花』と同時期に書かれており、三島は書評も書いている)。『仮面の告白』のある種の"いかがわしさ"は、「私」が無理矢理ホモであることに自らの存在根拠をもとめているかのごとき"頑なさ"として感受されてしまうところにあるようにも思える。

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#2000.11/01   共生虫の時代

 「ネットサーフィン」などという言葉があるが、ネット上を動き回って見て読んでまわることは、たしかに、他人たちのおしゃべりと多用な情報(ことば)の海の上を漂うことに似ている。なるほど、究極の根拠をもたない現象の海に船出し、帰るべき港をもたない、現代的知の自己イメージとしての「ノイラートの船」などという発想と通じるのでもあるかとナットクしたりもする。
 漱石『こころ』の先生と青年の「私」が、アカの他人たちの群衆の中で出会い、はじめて言葉を交わすのは、先生のあとを「私」が追いかけ、先生が海の上に仰向けになったのを"真似て"(真似ぶ=学ぶ)漂っているときであった。この場面は、根拠のない人間関係(海の上)からはじまって、しかも目的をもたない関係であること(漂っていること)、「私」が"先生"に真似ぶ=学ぶ者であることなど、先生と「私」の関係を端的に表象しているが、さしずめ、それを現代的におきかえれば、ネット上の関係になるだろうか。
 『こころ』にあっては、先生の過去が焦点となって、遠近法のはっきりとした奥行き(内面=こころ)をもった人間関係が表象されえたわけだが、拡散するハイパーテクスト的転回以降の「こころ」は、北極星も南十字星も見えない洋上を漂うことになるわけだから、「先生」に出会っても、奥さんとの共-生といったオメデタイ結末は期待できないだろう。

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by YAMAZAKI Yoshimitsu
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