#2000.11/03 三島全集
『決定版 三島由紀夫全集』(全42巻 新潮社 2000.1〜2004.5)のカタログが、雑誌『新潮 臨時増刊 三島由紀夫 没後三十年』(2000.11)に載っている。 私は、注文したのだけれども、まだブツを見ていない。写真を見ると、箱は紅で本体黒。なかなか壮観である。三島の律儀さにならってであろうか、刊行も、律儀に1巻から42巻まで巻数の順に刊行されるようだ。41巻はCDで、講演や朗読、歌までも! 入るとある。さらに、全巻のオビからマークを集めると、「検索CD-ROM」をくれるらしい。中上健次の全集の時は、月報をまとめた1巻をくれたが、「検索CD-ROM」は画期的だし、嬉しい。 「創作ノート」も、これまで、いくつかは『波』などに抄録されていたが、ようやく全面公開になるようだ。
三島の話題をだしちまったので、何か書かないとカッコつかないから、ひとつだけ。 ちょっと前に『禁色』を読んで思ったのだけども、性欲の弱い植物系男色とでもいうべきなのはありえないのだろうか? (そういう意味では、福永武彦『草の花』などは、貴重か?)。誰もが絶倫であるわけもなかろうに。となりにいい男がいるとすぐ触りたがったりするのを読んでると、そういう場所に来ているのだからともいえるのだろうが、女がとなりにいるからといって、ヘテロにしたってみんながみんな触りたがるわけでもないように、ホモだって、もちっと違うスタイルもありうるだろうに、と素朴に思った。抑圧されているだけに、チャンスには抑えられないものなのだとでもいうのだろうか。だいたい、三島は両方いけたはずで、そういうマージナルな意識のありようを、どうして書かなかったのか、ふしぎである。 そういう意味では、『仮面の告白』などは、そうもありえた小説だったのかもしれない。(ちなみに、福永『草の花』と同時期に書かれており、三島は書評も書いている)。『仮面の告白』のある種の"いかがわしさ"は、「私」が無理矢理ホモであることに自らの存在根拠をもとめているかのごとき"頑なさ"として感受されてしまうところにあるようにも思える。
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