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くず籠

 1998(平成10)年度以後、取り交わされたゴミ・メールなど。

  1. 奥泉光を食べる(『虚構まみれ』書評)[1998.5]
  2. 「おねしょする少年」論争[1998.6, 7]
  3. モリオカ宅うんこ事件[1998.9]
  4. 城崎にて[1998.7]
  5. ああ、悲しくも愚かしき、懐かしの「イヌ又」事件[1999.6]


  1. 奥泉光を食べる(『虚構まみれ』書評)  [1998.5]

     奥泉光の初めてのエッセイ集を入手した。早速読む。巻頭の第一行がこれである。

    書きたいことなどひとつもない。
    およそ小説に関して、これだけははっきりと断言できる。
      (「意志の来歴」

     こう述べた作家に三島由紀夫がいる。三島の場合は「川端康成論」のなかで、川端が書くことを持たずに書き始めた作家だといっているのだが。三島との近接は、エッセイの形式にもあって、日記形式で綴るエッセイなどでは、『小説家の休暇』などにおいて、しぱしぱ三島が使った形式である。そもそも、日記を公開する目的のエッセイにしているような点で、実は本質的に三島と小説(言語)の認識において通底しているのかもしれぬ(これについでは後でふれる)。そうにちがいない。まあ、日記形式のエッセイを書いていたのは三島以前にいるのかも知れないが。

     いずれにせよ、この巻頭の一言で私が大きくうなずいたのは言うまでもない。

     いくつかのエッセイを読むと(「意志の来歴」「小説の面白さとは何か」「スタイルについて」など)奥泉の小説観が横光の小説観を思わせるようなのが興味深い。「誰にもよまれることのない小説は小説ではな」く、最低限、自分で書いた小説は自分が読む。書き手とはまず第一の読み手である(糸圭(すが)秀実もそんなことを述ぺている。『メタクリティーク』)。そういう両者の対話のなかに生じる経験が小説の面白さであり、自分の小説にたいして「作家は返ず批評的たらざるを得ない」のである(このあたりは三島的)。小説がこのような意味で書く者と読む者との共同制作であるかぎり、「「純文学をとことん徹底した果てには、先に述ぺた「大衆小説」が待ち受けていることになる。おそらく逆もまた真であろう」(これはあからさまに「純枠小説論」と重なる)。

     こういう発想に行き着くのはおそらく、その根本に、言語が基本的に公共的なものでしかありえないというラディカルな認識があるのであろう(このあたりが、日記形式のエッセイが本質的な言語観を端的に示していると述べたゆえん)言語の使用の場面に、ついつい個人の発話をイメージしてしまうことに起因する、いわば言語の私性という迷妄に毒された言語観から、主体の表現としての文学(小説・詩等々)というステレオタイブの認識が発生する。そうだとすると、それにたいして、奥泉的な小説認識(ひいては三島や横光も)は、言語がそもそも他者たちとの間での交通を前提として成り立っている公共的なものだという認識があるのであろう。そういう発想から昭和初年代のモダニストと近接した小説観を抱くのもうなずけよう。奥泉が好んで読む「探偵小説」(推理小説ではない)があらわれたのもおなじころであった。おそらく、そういった小説を読む中でつちかわれた言語感覚なのだろうとも思われる。

     奥泉は、「書きたいことはひとつもない。しかし読みたいものならある。だから書くのだ」という。そして、自分が少しずつ異なったスタイルの小説を書いて来たのは、「おそらくそれは、ぽくが小説を書き始めた瞬間から、「小説」なるものそれ自体への興味に心がひかれたからではないかと思われる。何か書きたいことがあって書いたのではなくて、最初からぼくは「小説」を書こうとしていたのであり、その意味では、「小説」を知るために小説を書いでいるのだとさえいいうるかもしれない。だから、面白い小説を書きたいとぼくが口にした場合、それは小説というものの面白さを発見したいという意味である。小説の面白さは、作り出すものではなくて、書く行為のなかで発見されるものだとの直感がぼくにはあって、だから多様なスタイルの探究に目が向くのだろう」「スタイルについて」)。

     このように書く奥泉が「雑食」であることは当然の事でもあろう。「手に入るものなら何でも取り込んでいく雑食性にこそ小説の面目はある」「小説を豊かにするために」)のである。「雑食」すなわち、何でも「食べる」ことが、実は奥泉の小説観を概括的に捕らえるのに適切なのかも知れない、と半ば本気で、なかば冗談で、思う。ここまで行くと、己の駄洒落に執着した我田引水に思われるかもしれないが、しかし、奥泉は最初の小説を書いている最中に「料理」を覚え、グルメになったのだと書いている。「小説を書き始めた二十歳代後半から三十歳代にかけての数年、僕は小説と料理という二分野の幸福な結合において、技術の修得に専心していたのてある」「実験の日々」)。これは単なる偶然なの、だ、ろう、ね、やっぱり。そうじゃなけれぱ、奥泉に固有の認識ではなく普遍的に、言葉は食ぺ物であるといえる一側面があるのだろう、といっておこう。小説は糞であるとは好く言われることだなどという言葉もこのエッセイ集にはあった(と思う)。

     つまりは、面白いのであっという間に読んでしまった。

     『グランド・ミステリー』と関連のあるエッセイ(「連続と切断」)や自作解説(「自作を解説する」)などもある。

    奥泉光『虚補まみれ』青土社 1998.5 1900円

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  2. 「おねしょする少年」論争  [1998.6, 7]

     以下にまとめられた資料は、1998年6月から7月にかけて生じた事件とその事件 の解釈についての論争である。参考(何の?)までに御笑覧いただきたい。通称「おねしょ事件」で ある。

    1. (98.6.23 yamazaki )

      (そういえば、なんでもいいけど、例によって例のごとく、そそっかしいことに、モリオ カは、不敬にも!!、のぶひろしぇんしぇいの名を「信弘」先生と書いている。万死に値 するであろう。)

      (語注)
       ここで問題となっている「のぶひろ」先生の名前は、正確には「伸宏」先生なり。


    2. (98.6.23 morioka )

      ???
       森岡が先に皆様に差し上げた感想文にて、佐藤伸弘先生を「のぶひろ先生」とお呼びした 箇所はあれども、漢字でお呼びした箇所はなかったはずでは?宛名の部分には、正しい漢 字でお呼びしていたのではないでしょうか?

       山崎さんから続けて頂いたメールを拝読してもさっぱり訳が分かりませぬ。これも森岡の そそっかしさのなせる業でしょうか?

       ただ、前に山崎さんに差し上げたメール中にはご指摘のような誤記は確かにありました。  ここに告白してお詫び申し上げます。

       ひょっとして、私のミスならばどうかご指摘下さい。

                  絞首台におびえつつ、冤罪であること祈る森岡


    3. (98.6.23 yamazaki 死刑囚にして死刑執行人)

       私、懺悔をしなければなりません。

       先ほど私はモリオカ君にむけて、
      「そういえば、なんでもいいけど、例によって例のごとく、そそっかしいことに、モリオ カは、不敬にも!!、のぶひろしぇんしぇいの名を「信弘」先生と書いている。万死に値 するであろう。」と書きました。すでにお気付きのように、そう言う当の私自身が、「信 弘」先生と記してしまいました。私は私に向い「万死に値する」と言わねば成りません。
       いまや私は「死刑囚にして死刑執行人」たらねばならない。なにせ、私の犯した二重の誤 訂正によってついに、「伸宏」しぇんしぇいを一字一句エクリチュールによって抹殺し、 象徴的に息の根を止めてしまったからなのである!! 私は自らを告発せねばならない。
       「この罪万死に値する!!」。

       ああどうか先立つ不幸をお許し下さい。
       それでは皆さん、サヨ〜ナラ……


    4. (98.6.24 matsuura)

       うははは・・・・・あ、こんばんは、まつーらです。
       森岡さん、これ(↓)が動かぬ証拠です。

      「森岡が先に皆様に差し上げた感想文にて、佐藤伸弘先生を「のぶひろ先生」とお呼びし た箇所はあれども、漢字でお呼びした箇所はなかったはずでは?」


    5. (98.6.24 morioka 死刑囚の手記)

       はい、その通りでございます。

       もはや言い訳のしようもございません。
       これほどの失態をおかしたのは、本当に記憶がないほど、です。

       先生、重ね重ね申し訳ございませんでした。森岡は、先生につぎお会いするときがとても 怖いです。
       壁を見つめながら自己意識でも変えてみようかと、、

       もはや覚悟を決めて花鳥風月などしながら非転向を貫くほどのプロ派作家的根性もなく、、
       おずおずと獄中から呼び声のかかるのを待つ死刑囚 森岡
       まつーらったら、太字にまでしちゃって、、、ああ、、、


    6. (98.6.24 yamazaki )

       ヤマザキでございます。

       やはりモリオカはモリオカであった。私はモリオカらしい(?)「否認」なのかとも思っ たりしてしまった。
       松チャンからのメールもみて朝からひとり笑いしてしまった。

       モリオカは、「死刑囚の不死」(死ねない死刑囚〜死なない鮹)を生きなければならない。
       私もか?


    7. (98.7.9 yamazaki 徒然なるままに日暮らしパソコンにむかいて……)

       ヤマザキによる「のぶひろ」先生エクリチュール抹殺、モリオカによる罪の否認 とそれに対する「松浦告発」という一連の事件は、そろそろ忘却の淵に沈みそうな頃 合かと思われるが、しかし、私の中には、この事件の中で特にモリオカ君の「イノセンス」* (芹沢俊介)の表象として忘れられない一つの情景が頭に焼き付いている。

       それは、モリオカ君のあの否認の所作が、私にはあたかも、“おねしょをした布団を前に して叱られた子供が、濡らしたパンツをはいたまま、「ぼくじゃないもん」と言っている 姿”、端的に言えば「おねしょする少年」に思われたことである。本人がいかにも本気で あるにもかかわらず、周囲からはバレバレというあたりが「子供」(ないしは少年)であ ることに、また、本人にとって無意識無自覚な失敗である事が「おねしょ」という表象 (イメージ)に結びついたのでもあったろうか。私はあの事件に直面した時に、独り笑い ながら、直観的に、如上のごときイメージに囚われてしまった。これは、モリオカ君自身に も気に入ってもらえる、あるいは、納得してもらえる一つの表象であろうと思っているの であるが、何ゆえこのイメージがこのようにピッタリくるのであろうかということが、そ の後私の気に懸るところとなっていた。

       それが最近いくらかわかったように思われて来た。

       それは「主体性」の問題に関わるからではないか? モリオカ君の愛する後輩であるヤギ 君の「考える人」事件* のときも、それが「糞」と関わっていた事に深い含意があったのだ とも今となって思い当たるのであるが、それを説明する為に、ここで私はフロイトの「性 格と肛門愛」(ちくま学芸文庫『エロス論集』に収録されている)を参照したい。それに よれば、「人間は5歳の終わり頃から思春期の初期(十一歳頃)まで、「性の潜在期」と 呼べる時期を経験するが、この時期にはこうした性感帯[註―性器・口・肛門・尿道]か ら生まれる興奮を土台として、反動形成によって羞恥心、嫌悪感、道徳心などの反対勢力 が、精神生活の中に生み出される」よしである。たとえば、「清潔好き、秩序正しさ、信 頼性の高さなどは、不潔なもの、混乱したもの、身体に属さないものに対する関心の反動 形成として形成されたという印象を与える」という。

       そういう反動形成を介して主体性・ 性格形成がなされるのであるというこの仮説にしたがっていえば、我々のモリオカ君に常 に認めているところの美点を良く説明してくれるように思える。というのも、「清潔好き、 秩序正しさ、信頼性の高さ」ほどモリオカ君に縁遠い言葉は無いし、逆に「不潔なもの、 混乱したもの、身体に属さないもの」の方にこそモリオカ君が親近しており、「羞恥心、 嫌悪感、道徳心」こそ彼に足りないと思われている当のものだとは、彼を知る誰もがみと めるところだからだ。これは全くのところ誉め過ぎのように思えて気が引けるが、そこを あえてこうして誉めるのは、そういう硬直化しないアモルフなものへ淫しようとするとこ ろにこそ、彼の魅力があるはずだからだし、だからこそ彼の「イノセンス」の一つの表象 として「おねしょする少年」が我々に納得されるようにおもえ、そういう彼だからこそも つ可能性を信じる事ができるからなのだ。

       ここまで私は徒然に考察してみて、我ながら深く納得しているのだが、他のみんなさんは このような私のモリオカ評をどうお考えだろうか? 反響をおよせいただきたい。

      (語註)
      「イノセンス」……芹沢俊介は、「イノセンスの壊れる時」において、〈イノセンス〉と はある事態(多くは窮地)に立ち至ったときに人が発する言葉・取る行為に照応して出現 する心的場所であり、その言葉(行為)が発しているのは「自分には責任がない」という メッセージなのだ、と言っている。
      「ヤギ君「考える人」事件」……97年度国文学研究室研修旅行(青森県浅虫温泉)に宿 泊した晩、伸宏先生をはじめ、横山、森岡、などとともに、4年生の女の子たちも一緒に 呑んでいる最中、いいかげん酔っぱらった、八木君(当時M2)が、ゲロを吐きにトイレ にたてこもった。あまりながいので心配した森岡が、トイレの扉を開いたところ、八木君 は、全裸で肘をついたポーズにて、糞を垂れている最中であった。その瞬間を4年生の子 らが目撃してしまった事件。


    8. (98.7.9 morioka はて、「モリオカ」とはダレのことでしょう?)

       本日私のパソコンに舞い込んだ熱烈なる「こひぶみ」を読み、地の底で閻魔大王がすき焼 きをやっとるような暑さの中、血潮は更なる凶熱を求めて逆流を始めたことです。 告発者某氏から、「いやいや、以外に高潔な人物である」等の、後輩としての温情あふれ る反響でも期待したいところですが、ここでそれを強要しても単なる出来レースとしか思 っていただけぬでしょうし、そもそも書いてはもらえぬでしょう、トホホ、、 というわけで、まあ、そのヤマザキ氏の熱い思いに応えるとすれば、表題のごとくなりま しょう。

       ただ、これで終わってしまっては、先生の貴重な時間を無駄にしてしまい、更なるお怒り を買うのみですので、少しくヤマザキさんに疑問など呈してみたいと思います。

      ☆「おねしょ」の比喩と<否認>とについて
       私の理解に拠れば、マゾヒストの所作としての<否認>の最も重要な側面は<より大きな 枠>という比喩で言い当てられるはずです。予め与えられた制度的枠(『地下生活者の手 記』においては「死」あるいは「神」をその究極的様態として想定することが容易でしょ う)を、包括し、補集合を作りながら無化してしまえるような新たな枠組みを、意識的に せよ無意識的にせよ(実のところ、それは全く問題になりません)自らに科すこと、これ こそがマゾヒストの異常な想像力の実体であり、同時に彼が制度に対抗する本質的な手段 であります。
       以上お読みになった賢明なる皆様にはもうおわかりの通り、<否認>とは<是認>を含み、 それをも利用する手法であります。ならば、「おねしょする少年」は、ああ、そのあまり に悲劇的に美しいイメエジは、如何にヤマザキさんごのみであるとは言え、「もりおか」 なる人物を評するには不適当だといわねばなりますまい。彼に於いては、<否認>と<是 認>とが同じ強度をもっているのであります。むしろ、これは「死刑囚にして死刑執行人」 を自称する、とあるお方の姿に全く重なるとの印象を拭えないではありませんか?ああ、 このお方は、先の公開ラブレター冒頭にも、自らの罪が忘れられる事なきよう、自らに向 かって死刑宣告をなさっておられました!!その姿は額に刻印をみるドイツの少年「クエ ゲル」のごとく求道的、サディスティック、可憐、ロマンティックであります。

       では、「もりおか」なる人物はいかようにイメエジされるべきか?
      「自慰行為を母親に見つかりながら、「チンポがかゆいんじゃ」と叫ぶ少年」(マツーラ、 すまん)
       これは、中島らもというアル中エッセイストの文章に出てくる笑い話ですが、これ以外に 考えられません。この像において、自慰行為は一面<是認>というより露出されながら、 より大きな「コントの俳優」(母親に身体を見られながら演じる存在)という枠の中にそ の存在が<否認>され、利用されてゆきます。
       まだ、他にも述べ足りぬこともあるのですが(フロイド欲動説の体制性について)、余り 遊んでいると叱られますので、本日はこれにて。
       一部にお見苦しい発言のあったことをお詫びいたします。

      ★結論 「もりおか」とはヤマザキ氏の鏡像なり。疑いの余地1ミリも無し。


    9. (98.7.10 matsuura お下劣)

       こんにちは、告発者・まつーらです。

       メール読みました。
       正直いって、大変複雑です。
       「同志愛」とでもいえばいいのでしょうか、とにかくわたしは、あの一連の事件によって 運命付けられてしまった二人の死刑囚の間に、絶ちがたいつながりが存在するということ ・・・そう、「絆」の存在を、はっきりと確認させられました。

       本来ならわたしは告発者として、彼らの罪を糾弾し続けなければならないでしょう。しか し、彼らがこのように熱い、裸の対話(ときには恥ずかしいくらい)を行っている姿を目 の当たりにした今、わたしは心の底から願ってやみません。
      「彼らの死に苦痛の少なきことを」


    10. (98.7.10 matsuura 件名変更)

       お恥ずかしながら何度も申し訳ございません、まつーらです。

       先ほどのメールの件名、わたしの最初の印象でつけてしまいましたが、書いていくうちに、あれは取り消した方がいいだろうと思っておりました。しかしわたしは、訂正せずそのまま送ってしまったのでございました。確かに始めはあのような感想を抱いたことは事実です。しかし、それはわたしの間違いでございました。先ほども書きましたとおり、あのメールのやりとりから、「お下劣」どころか、死に行くもの同志の「愛」を感じたのです。
       ここに、あらためて件名をしるしておきとうございます。

      「崇高な、余りに崇高な」


    11. (98.7.10 yamazaki)

       さて、はやばやと私の『徒然草』にたいする反響があり、モリオカ君はそれこそ徹底した 否認の身振りによって「おねしょする少年」のイメージを超克し、自らをぎりぎりの淵に 追い詰める自己イメージ、「自慰行為を母親に見つかりながら、「チンポがかゆいんじゃ」 と叫ぶ少年」として自己提示した。その、“汚辱を欲して肥溜に身投げする”かのごとき (没落を欲するニーチェの「超人」の積極的なパロディとも見える)徹底ぶりに感心いた しました。(このような言い方は、ただですら酷暑の折柄糞尿の臭いたつこの季節にふさ わしいというべきか、「もうやめろ」というべきかは意見の別れようところだとは思いま すが、なにとぞお許しくださいませ)。私は自らのモリオカ君理解の(全くの的外れであ ったとは思わないのですが)不徹底を反省致しました。

       これで私はマツーラさんと、モリオカ君とに「こひぶみ」を出してしまったことになるの ですが、わたしの「愛」はそれぞれに唯一・単一的なものであって、決して比較できるよ うな相対的なものではないことをわかっていただきとうございます。それにしても、「愛」 は「存在」の一つの様式であってそれ自体自存する「モノ」であるかのごとく考えてはな らず、常に掴もうとする手を逃れ去る何「コト」かであります。
       また、忘れたころに、こんどは、口数少なく、われわれの電子メディア世界の地下に隠れ て日のもとにあらわれない“土の子ツッチー”氏* への「こひぶみ」的実践をしてみとうご ざいます。

      それではまた。

      (語注)
      「ツッチー氏」……土屋忍氏。南方徴用作家の研究など。精力的かつユニークな研究活動にとりくんでいる新進の研究者である。様式史研究会で山崎と一緒に発表して以来の友人。

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  3. モリオカ宅うんこ事件  [1998.9]
    1. (98.9.16 morioka 衝撃的な事件!)

       森岡でございます。

       本日は、先生のご参加で盛り上がっている一連の議論から少し離れたご挨拶にございます (先生、貴重なお時間を割いてのご参加、大変ありがとうございました。近日中に必ず私 め、勉強の成果をご報告申し上げます)。

       昨晩おつきあいくださった方は、どうもお世話様でした。またまた変な騒ぎ方をしてしま い、申し訳ございませんでした。反省いたしますので、どうかまたおつきあいくださいま せ。しかしながら、世の中良くできたもので、うちに帰り着いた森岡を待ち受けていたの は、天の雷のごとき物象でございました。はっきりとはせぬもののなにやらもっこりと見 える暗い、柔らかな形をした、つややかな、そう、それはまるで吉岡実の「静物」のごと き物体。そしてその横には何か別の質感を持った、白と茶色の斑を持ったものがそっと寄 り添い、そこはかとなくかぐわしきにおいが臭覚を刺激・・・

       そう、それはマゴウカタナク「人糞」と「かつてパンツであったもの」だったのです。な んとショッキングで、ストライキングな出来事でしょう!「誰が、何のつもりで!」と、 思わず大声で憤激しそうでありましたが、ふと冷静になってみれば、嫌がらせならば、 「パンツ」を「かつてパンツであったもの」に転生させる必要もございません。おそらく 緊急避難であったのでしょう。森岡の玄関は、公道からはブラインドになっていることで すし・・
       しかし、「近くにガソリンスタンドもあるのに、どうして・・・」という疑問は消せない わけですが、そのようなことをしゅうねく問うのは愚かな人間の罪。「きっと天罰に違い ない」と諦念し、粛々と掃除を始めたのでありました。

       汚い話で申し訳ございません。とにかく、昨晩のお詫びまで。


    2. (98.9.16 yamazaki)

       「衝撃的な」モリオカ宅うんこ事件は、すでに誰もが確信している通り、うんちの神様の お告げである。神聖な啓示がおりたと聞いた私は、しばし笑いが、(この世の全てを相対 化する笑いであるッ!)、とまらなかったことでございました。考えてもみてほしい。私 のうちの玄関先や、カトー君宅の玄関先にそんなものが出現するであろうか? ノサカ 宅の場合はションベンくらいならあるかもしれぬが、のぶひろ先生宅の場合はせいぜいシ ラス* の糞としょんべんがいいところであろう。ツッチー氏の場合は、、、エヘン、ともか く、私の預言(?)した通りであったわけだ。どうりで、モリオカ君が良い調子でメール を書きまくっているわけだ、と私はふかくナットクした。

      (語注)
      「シラス」……伸宏先生宅の飼い犬の名。

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  4. 城崎にて  [1998.7]  山崎義光

     仙台から跳ね飛ばされて就職した、その夏休みに、都丸* と横山* と自分の三人で但馬の城崎 温泉へ出かけた。博士論文が書けなければ致命傷になりかねないが、そんな事はあるまい と伸宏先生* に電話で云われた。論文を二・三本書ければあとは心配はいらない、とにかく 仕事も大変だろうけどきっと書くんだよと云われた、その次の日に来た。

     頭は暑くてはっきりしない。物忘れが烈しくなった。おかげで前日電話で云われたことは すっかり忘れていた。然し列車の中は冷房がほどよく利いていて、おかげで気分は近年に なくすっきりとして、落ち着いたいい気持がしていた。稲が青々としている頃で、車窓か ら見える景色もまずまずだったのだ。 三人で来ていて話す相手はすぐ隣にいる。横山は居眠りをしていて、都丸は本を読んでい る。読むか寝るか、ぼんやりと椅子に腰かけて車窓から見える山だの景色だのを見ている か、それでなければ話し掛けるかしていた。

      昼過ぎに着いた頃少し雨が降った。然しすぐにあがって、木の葉も地面も湿気を含んで蒸 していた。蜂の死骸などどこを探してもなかった。自分はだいぶ前に「〈心境=真相〉の 探求」という論文を書いた。「城の崎にて」と「薮の中」を並べながら大正文学の大まか な流れを示すつもりで書いた。それは志賀直哉の作品を殺すつもりで書いた。然し今は志 賀の作品に淫し、それをパロディにして三つにわけ、伸宏先生と森岡と加藤に分けて送っ て、仕舞には一まとまりになるようにして、旅の様子を書きたいと思った。 蜂の死骸のことなどすっかり忘れて旅館でくつろいでいたときだった。しばらくして、一 杯飲んでから散歩しようかと都丸が云った。そうしましょうと横山が応じた。云われるが ままに自分もグラスを持っていた。その後に、ロープヱーに乗るつもりで宿を出た。山の 上からの眺望は絵に描いたような景色だった。

     夕食の時に来た仲居は口の減らないおばはんだった。男だけで来はったんかなどと 始まり、次第に調子にのって、横山と都丸は普通のお人やけど自分はにやけたやさ男や と云った。横山と都丸は大声で笑った。ふざけろと思った。誰のことを云っているのかと 首をきょろきょろとした。心で泣きながら麦酒を飲んだ。それは誤解なのだと思った。淋 しかった。自分の本質はそう実際には分かってもらえないものに相違ない、そう思った。 「あるがまま」に振る舞うことがときに人の目にはそう映るのだ、そんなふうにも思った。 然しそれはそれで、自分が思うのと、両方が本統で、分かってもらえればよく、そうでな い場合も、それでいいのだと思った。それは仕方のない事だ。

     ……蒸し蒸しとした夕方、横山と小さい清い流れについて行くと、向こうに三匹の偽物の 鳥が一列に並んで置かれているのを見つけた。前の一匹は顔を羽根に埋めている。後の二 匹は前を向いてじっとしている。その周りでは数匹の鳥たちが忙しく動き回っているが、 全く拘泥する様子はなかった。忙しく動き回っている鳥は如何にも生きている物という感 じを与えた。そのそばに一つ所に全く動かずに置かれているのをみると、いかにも作り物 という感じを与えるのだ。それは見ていて如何にも静かな感じを与えた。淋しかった。然 しそれは如何にも静かだった。

     段々と近づいて来た。すぐ上のところまで来て、自分は流れへ臨んでそれを何気なく見て いた。自分はじっと見ながら、よく出来た作り物だとそばの横山に語った。横山もそうで すねと答えた。しばらく自分たちはそうして眺めていた。するとじっとしていた偽物の鳥 がかすかに動いた。自分はどうしたのかしらと思って見ていた。すると、じっとしていた はずの作り物の鳥たちが動き出した。鳥たちは本物だったのだ。自分はしばらく呆気にと られてしまった。なんとまぁと思うと同時に、本物と偽物の区別のつかなさを思った。本 物であることと偽物であることと、それは両極ではなかった。それ程には差はないような 気がした。そんな事を想いながら、しばらくして自分たちはそこを立ち去った。足の踏む 感覚も、如何にも不確だった。只頭だけが勝手に働く。それが一層そういう気分に自分を 誘って行った。

     一日だけいて、自分たちは此処を去った。それからもう三日以上になる。自分は偽物にな るだけは助かるだろうか?

    (自注)
    都丸(とまる)」君は大学時代の同級生なり。学生時代に一時停止で捕まり、「名前は?」と尋問され、「トマルです」と答えたら、「洒落にならんな」と言われたという、できすぎた逸話をもつ。
    横山」君は大学・大学院時代の一つしたの後輩なり。(東北大学)明善寮の後輩でもあるなり。学生時代以来の気の置けない友人である。
    伸宏先生」は、日本の近代詩を専門にする研究者。2女の父。普段はキチンとした先生だが酒を飲みだすと「バッキャロ」を連発し、ややわけのわからなくなることもあるらしく、後悔の絶えない飲んべえである。

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  5. ああ、悲しくも愚かしき、懐かしの「イヌ又」事件  [1999.6]  山崎義光

     ……そうです、あれは、大学院後期課程進学試験の日の夜のこと。

     仙台の1月の末。外に出るだけで「耳がとれるか」と思われるほどの寒い寒い夜のことでした。

     2日間ある試験第1日が終了し、一通り翌日の試験の準備を終えた私は、緊張もほぐし気分転換にと、近くのコンビニまで、半纏に草履ばきで、「これじゃ、足が凍っちゃうよ」とぼやきながら、家を出たのでした。夜空には星かげしるく、寒々しい車の音があたりに響いておりました。

     半纏の前をガッチリ合わせて首を埋めながら、カラコロと草履を鳴らし、早足で歩きながら考えることは、やはり寒々しい外気の中にも緊張した思いでございました。「とにかくも、もうはや、為すすべもなし。明日受けて、後は結果を待つのみ」と孤独な思いで歩いておりました。家を出ると少し行って車の通る道沿いに。道に出るとすぐ駐車場が右手にあるところへさしかかります。その時です、右の眼の隅に、なにやら白い影が。ふと右を見た瞬間迫ってきたものは、ああ、ワン公! 

     私の住んでいた家の隣には、3階建ての自宅兼建設会社の事務所がありました。そこで飼われていたのは、シベリアン・ハスキー。以前も、家を出たところで、このワン公に「じゃれつかれた」同居人が、あわてて家に飛び帰ってきたことがありました。普段は、どこにいるのか、顔も見ないのですが、ときどき私たちを驚かせてはいたのです。

     その夜全くの予想外にも、私に飛びかかってきたかのワン公の足は私の肩へ。あわてた私は、草履の脱げるのも気にせず、靴下だけになって、心もそらに家に向かい一目散に駆けたこと、言うまでございません。しかし、立てば肩に足の届くハスキー犬のこと、私のあわてた足で逃げ切れるはずもなく、石ころを踏み踏み、右往左往しながら、家にいるはずの同居人に聞こえよと、周辺の住人のことなど気に掛けている場合でもなく、「助けよや、たすけよや。イヌ又よや、イヌ又よや」と叫びながら、にげまわったことでございました。

     随分長いことそのへんを走ったような気がいたします。救援は来ず、少しばかり冷静になった私は、「そ、そうだ、仲良くなったら大人しくなろう」と思いつき、即作戦変更、その場にとまって頭の一つも撫でてと、立ち止まったのでした。後で考えると「じゃれられて」いたとも思えるのですが、震える声で「よしよし、おとなし……」と言いも終わらぬうちに、べろべろと舐められ噛まれ、ぴょんぴょん跳ねてはのしかかるワン公に、私はまたも圧倒され、撫でるはずの手は必死にワン公の頬ッ面を平手打ちしておりました。しかし、非力な私がかなうはずもなく、こりゃいかんと再び走り始めたのでございます。

     「そうだ! 飼い主は家にいるだろう! 今頃思いつくなんて俺も馬鹿だな」と、一目散に飼い主の住む二階の玄関へ。建物に入ると、どうしたわけか、くだんのワン公は、追いかけてこず、ややほっとしながら呼び鈴を勢いよく二度三度。そしてまた。しかし……

     まさか、イヌに鎖も付けずに留守にするはずが……と愕然としたまま、しかし、中から応じる声はないのでした。そこで数分も経ったことでしょうか。今降りれば彼は待っている、しかし、飼い主はいつ帰ってくるか分からない、だが今降りれば彼が、と堂々巡りの思案に暮れながら、他方で、冗談じゃねぇぞと袋小路で怒り爆発。

     いつ彼が上に上がってくるかと怯えながら、おそるおそる、階段を見下ろしては眼を逸らし、見下ろしては逸らししておりました。そしてついに、下を見た私の眼とワン公の眼がピタリ。颯爽と駆け上がってくるハスキー犬を前に万事休すと観念のまなこを閉じんとしたとき、彼は目の前をひょいと過ぎて、近くに置かれていたゴミ袋になにやら気を取られている様子。呆然としながらも、見ると、生ゴミの中にあった肉に気が付いてそれに食いついているのでありました。

     そろりそろりと息をつめつめ階段を降りると、一目散に家に逃げ帰ったこと、言うまでもございません。

     帰ってから着ていた半纏をみると、ワン公の涎ですっかり汚れ、ところどころ爪でひっかかれた跡が。  かれこれ20分ほどの時間が経過していたのでした。

     翌日、試験から帰った私を、ワン公の飼い主たる隣家の奥さんが訪ねてきて、菓子折をおいて行きました。どうやら、向かいの家の住人が、私の苦闘を知っていたようで、飼い主に忠言したらしいのです。  その年の3月、私は無事進学が決まり、この家を去ったのでした。

     思えば、学部3年から前期修了までの4年間住んだこの家は、白ネコと黒ネコが家の周りを始終徘徊し、雀が家の中を飛びまわる動物の館でございました。

     私の「イヌ又事件顛末」でございます。

     ……………………
     こう書いてみて更に思い出すのは、私が3年以上通った家庭教師先で、その家の主人は、会社を経営しながら警察犬協会の会長をつとめていた。広い庭にドーベルマンを放しており、どうかすると、家の中を徘徊させておりました。「こんばんは〜」と入った瞬間吠えられて肝をつぶしたこと、一再ではございませぬ。大きな犬には、やや相性がわるい(よい?)ようなのでございます。

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