#2001.11/13
語ることの世界=地平にあって
日記なんだから毎日書きなさい、と叱咤激励されたものだが、何を書いたらよいものやら考えていると、何となし書くことに躊躇されて、やりすごすうちに、日が経ってしまうといったありさまなのだ。
語る場が茫漠としている。
「ニュース」について語る。そこで流れているのは、アメリカの死者のことだったり、アフガニスタンの難民ことであったり、イギリスの首相のことであったり、日本の政治家のことであったり、韓国の報道のことであったりする。
そうして目にし耳にすることは、「ニュース」であるとともに、私にとってもまた無縁ではない「出来事」だろう。隣の家族のことよりも、よほどよく知ることができるし、私にとっての影響の多寡で言っても、アメリカの事件の方がよほど大きいのだ。もちろん、程度の差ではある。しかし、その振幅は大きい。そして、そういう語られる言葉=出来事のなかに身をひたしてあって、語る者としてある<私>。
語るべきことがらの「地平」、語られる出来事との関連性をもつことで巻き込まれてある「世界」のうちに「存在者」としての私もありうる。そうした「存在」のうちに倫理が私に到来する。
あちらこちらで起こっている事=言に対してここにいる私という「世界」のありようについて、あちらとこちらの無縁ならざる場の地平のうちに、何を語るべきか、すべきかという倫理(=べきか)が問われるのだとすれば、そういう「べき」ことに応接しきれない私は、常にすでに、そして永劫に受苦としてあるほかない。
しかしながら、語る「べき」の磁場にあって、語らされる奴隷=傀儡ならざる話し手としてなければ、私が語ることの意味もまたないにちがいない。

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