雑 感

  
No.004 2000.09/02 [三島は鏑木夫人を愛していた─薔薇をして語らしめよ―] 跡上史郎
No.003 2000.08/28 [性懲りもなくボクシング的偏見に満ちた格闘技話] 柳瀬善治
No.002 2000.05/00 [17歳少年の事件] 山崎義光
No.001 2000.04/00 [つちのこのリアリティ] 山崎義光

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[No.004] 2000.09/02

三島は鏑木夫人を愛していた─薔薇をして語らしめよ─    跡上史郎

 三島はゲイだから女嫌いだという上野千鶴子らによる「男流文学論」は完全に失当していることが明らかになった(ほらフェニミズムはダメだとか抜かすオヤジ、ちなみに論外である)。これを明らかにしたのは、伏見憲明の「カマ流文学論」だ(『クィア・ジャパン』VOL.2の座談会)。三島は、『禁色』の鏑木夫人を愛していたのである。ビッチ趣味としてだけど。要するに鏑木夫人は、ゲイに大人気の松田聖子だったのだ。どうでもよさそうなことだが、眼からウロコだ。やっぱり面白すぎるのでどうでもよくない。

 あと、『クィア・ジャパン』で良かったのは、アメリカ西海岸でこそイキイキしていたというフーコーの話(毎年集中講義に行ってたそうな)。権力がどうとか告白という制度がどうとかいう話には、「けっ、そーですかい」としか思わないが、ゲイのSMクラブに嬉々として通ったというのだから、フーコーは信じていいんだろうと思う。っていうか、難しいこたあわからねえが、フーコー、良かったなあ、ホント、というホンワカした気分だ。

 先の伏見らの座談会では、槙原敬之を語るテンションが尋常ではない。よくわからなかったが、その方面に聞いてみると、ゲイのコミュニティでは、大変な支持を集めているそうだ。「どんなときも、どんなときも、ぼくがぼくらしくあるーためにー、す〜き〜なものは、す〜き〜と〜」というのは、「そのまんまやんけー!」なのである。マッキーは、自分はゲイではないと否定しているみたいだが、ゲイのファンにとってはそんなことよりも、マッキーがいてくれて彼の歌があったこと、それだけでよかったのであった。マッキー、早くかえってこい、という気分になる話だ。

 藤野千夜『少年と少女のポルカ』で、クィーンの「ボヘミアン・ラプソディ」が、「何度聴いてもそれははじめて男と寝た男の歌にしか聞こえなかった」という形で出てくるのも衝撃である。意外だからじゃなくて、まさにその通りなのに、なんでそういう風に聴いていなかったんだろうということだ。マッキーのもそうなのだが、 ダブルミーニングというよりも、サブリミナルのレベルで、私のようなストレートはゲイの名曲を心地よく聴いているらしい。多くがそうだから、逆に大ヒットするのだ。

 当事者でなければ語ってはいけないということはないはずだが、当事者だから見えやすいということもあるはずで、もっともっとこういうものが前面に出てくれば、世の中少しは変わってくるだろう。ちなみに『少年と少女のポルカ』は講談社文庫で、本編もいいが、斎藤美奈子の解説もかなりいい。

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[No.003] 2000.08/29

(掲示板)性懲りもなくボクシング的偏見に満ちた格闘技話     柳瀬善治

 MLで徳山戦の話をしましたが、民族ナラティブに話が集中するのは、技術的な話が出来ないからであり、また渡辺直巳流審美主義は野球の民族ナラティブを隠蔽するための装置として働くということでしょう。つまり、徳山ーチョ戦の技術論は、セーン・ソープルンチットーホセ・ボニージャとか、オスカー・デラホーヤーシェーン・モズレーあたりを先行テクストとして引き合いに出さないと無理ですが、一般人には話が通じなくなるのでやらないだけの話です。日本では地上波のTVが取り上げない限り誰も知らないままですから。たとえば、ナジーム・ハメドのパフォーマンスをK1の選手がパクッているとか(武蔵とか)、こないだは南原の番組で、アリー猪木戦の「世紀の茶番劇」を、バーリトウードの先駆として「修正主義的」に持ち上げ、要するに猪木へのヨイショに過ぎないわけですが、事前にアメリカ側で「リメーンバー・パールハーバー」的な筋書きを用意していたのを、日本が真剣勝負だと勘違いしているので、急遽アリが譲歩したとか(アリのセコンドのアンジェロ・ダンデイはどんな脚本家もこれ以上の茶番はかけないからこれは「真剣勝負」だと吐き捨てたらしい)、マイクベルナルドがWBFのヘビー級チャンピオンになったが、WBFとは興行側が箔付けに使うマイナー団体で権威も何にもないもので、しかも相手は4回戦ボーイクラスの選手だったとか、その手の話はきりがありません。

 総合格闘技という言い方自体「最強の球技とは何か」(誰が一番遠くまで飛ばせる)に似た語義矛盾ですし、どことなく、昔の45R、ベア・ナックル時代への退行のようにも思えます。実際、実践では寝技か一種で相手の急所をつく古武道が強いのは当然です。グレーシーが「強い」のはあの柔術が一種の護身術、暗殺術のようなもので、寝技に持ち込んで、急所を締めて相手を落とすという競技の性質が関係しているような気がしてしかたありません。高田が負けたのはプロレスという「様式美」で対抗しようとしたからで桜庭みたいにサバイバル戦で頑丈なやつが勝つという風にすれば話は別だったでしょう。

 K1が成立しているのはあれは日本=正道会館が一種の認定団体で石井のさじ加減一つでいくらでも「名勝負」が作れるからでしかありません。最近、大相撲の横綱対決に似てきたように思います。こないだアメリカ興行をSRSで見ましたが、あれでは目の肥えたアメリカのファンを満足させられないでしょうし、あの程度ならヘビー級のノーランカー(つまり大男が倒れるというだけなら)がいくらでもやれる試合です。ピータ・アーツをみてもロイジョーンズに比べれば物の数ではないとどうしても私などは思ってしまいます。そういいつつ私は正道の角田さんが宣伝している名古屋の格闘技専門店「公武堂」の常連客ですが。

 野球の話で言えば、渡辺ー蓮実的審美主義を成立させているのは「長島茂雄」という「天皇制の擁護」でしょう。王、張本、金田の三人が「日本人でない」ことと「長島が戦争責任を取らされないシステム」は密接に関係しているような気がしてしかたがありません。野茂がメジャーでノーヒットノーランをやる時代に日本野球だけを審美的に見ること時代無意味です。渡辺はタイソンについて、ただ「動物のように強い」(要するに「繊細な吃音」とかいうのと同じ)程度のことしかいえませんでしたし。昔、青田昇が云っていたように、韓国、台湾、日本でアジアリーグでも作ってぜいぜいアメリカに負けないようにするほうがましかもしれません。

 「ナンバー」については、なぜスポーツ・ノンフィクションに文学趣味が生き残るのかというのがあって、沢木耕太郎がタイソンの耳噛み事件のときに引用していたのは小林秀雄の「モオツアルト」でしたし(「タイソンの悲しみは疾走する」!)、死んだ佐瀬稔が辰吉ーシリモンコンのときにエピグラフにしていたのは小林秀雄訳のランボー「地獄の一季節」(「おお、季節よ、城よ」)でした。

 結論だけ言えば、野球とボクシングのようなルールと様式の限定が強い競技では、様式美が要求する審美主義(文学と倫理の混在)的読解が生まれ、総合格闘技みたいにルール無用の場合には「民族もしくは神道的ナラティブ」と一族的出自への回収が生まれる(北斗の拳みたいに、そうしないと語れない)のでしょう。

 

 関連記事=「モリオカ3行日記」#2000.8/17, 8/27, 8/28

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[No.002] 2000.05

17歳少年の事件    山崎義光

 17歳少年殺人事件(学校帰りに家宅侵入のうえ60代女性を殺害)。17歳少年バスジャック事件。
 これらの事件の特徴は、犯行の意味が「自体的」なことだ。
 「人を殺してみたかった」とは、例えば殺すことによって金を奪うというような,、当の殺人とは区別される目的があるのではなく、殺すことそのものに意味があるということだろう。
 バスジャック事件においても、バスを乗っ取ることに、大した意味があったのではないと疑われる。動機は語りたくないと本人は言っているとの報道だが、どうもまともな成算のある目的はなかったと思われる。
 報道が事件を語るときの理解範疇である「動機」は、起きた出来事を導いた、事件そのものとは別個の、事件となった出来事を通して実現しようと目論まれた目的、ないしは事件が目的とされるような原因が何であったかをアプリオリに前提としている。
 これらの事件には、そのような意味での「動機」は欠けているか、事件の重大さに対する「動機」としてはいかにも弱いと思わざるをえないことになるだろう。
 だから、むしろこう問うべきなのだろう。「動機」もなく行動してしまうのはなぜか、あるいは、「動機」らしい動機が、希薄であるにもかかわらず、常識的には考えにくい過剰な行動(=事件)を起こしているのはなぜか。
 家宅侵入して殺人をおこした少年の発言に特徴的なのは、「自分で決めたことは最後までやり通す」「自分の口からあやまりたい」というような、「自分で」へのこだわりにあるように思われる。「自分が殺した人に対しては、そこにいるなら謝る」とも言っているとのことだ。
 この少年の思考そのものが、「自体的」のように思われる。
 他方で、「人を殺してみたい」といい、また、「CDを回し続けたらどれくらいの時間で壊れるのだろうか」という疑問を友人に語っていたと言う。これは、そこにあって自明に存在しているものへのそれ自体への懐疑である。
 目の前のそこにあるものしか信じようとしない、にもかかわらず、目の前のそこにあるものが不可解なものとして映じるというジレンマがあるように思われるのだ。神戸の酒鬼薔薇事件の場合には、懐疑をもつ自己をファンタジックな(観念的な)物語の主人公へと自己の幻想を高じさせていたという点で異なるが、このようなジレンマを抱えていたと思われる点では、よく似ているとも思われる。
 しかしながら、ジレンマに対する答えを実践的に確かめようとしてしてしまったというようにこの事件を考えるとしても、なお実行された殺人事件に対して一般人が感じる重大さとの不釣り合いの印象は拭えない。

 

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[No.001] 2000.04

つちのこのリアリティ   山崎義光

以前、高校時代から未確認生物の探検を趣味とし、28歳の現在ではアルバイトをしながら、「つちのこ」を捕獲する目的で、九州各地に罠を仕掛けて歩き回っている人物を取材した番組を見た。なんでこんなくだらないことに、打ち込んでいられるのだろう。まず、そういう疑問がうかぶ。彼にとっての「つちのこ」とは何なのか? つまり、他人の理解を超えてしまいかねない過剰なところが、いかにも特異な感じを与えるのだ。「つちのこ」青年にとっての「つちのこ」とは、捕獲という具体的な行動を指し示し、促す観念だ。その見たこともない「観念的な何か」に促されて、彼の生活様式が作られている。そこに、私はひっかかっているようなのだ。しかも、自分が選び取ったというには、あまりにも不自由に「魅了され」、掴まれている。その意味では、「つちのこ」はむしろリアルな何かなのだ。観念的なものこそ現実的なのではないか。そんなことを考えさせられた。

 

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