おおきめの記事

 

No.004 2000.09/06 [「南北問題」の文学──池澤夏樹『タマリンドの木』──] 土屋 忍
No.003 2000.06/19 [コンピューターに巣喰う〈神〉] 森岡卓司
No.002 2000.06/13 [戦争とメディア] 土屋 忍
No.001 2000.04/** [現代小説を食べる] 山崎義光

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2000.09/06

No.004  「南北問題」の文学──池澤夏樹『タマリンドの木』──

土屋 忍

   白昼、駅前で行き倒れる人がいる。そうしなければ生きていけない物乞いがいる。旅先で他人の飢えや死に出くわし目撃した経験が、記憶されてゆく。

 「北」の人間が「南」の土地に足を踏み入れたその瞬間から「南北問題」は始まっている。経済的に低発展状態にある地域を旅した(することができた)者たちは、もうひとつの現実を(無)意識の中にイメージするので ある。

 文学研究とは、その種の記憶やイメージと無縁なほどお気楽な場所なのだろうか。

 池澤夏樹の小説『タマリンドの木』に登場する樫村修子は、タイ国境近くのカオイダン難民キャンプで幼稚園の仕事をしている。野山隆志は、修子の属するボランティア団体にエンジンを寄贈する社内プロジェクトに技術者として参加する日本の会社員である。ふたりは東京で出会い恋に落ちるが、アランヤプラテートに帰る修子と東京に残る樫村が一緒になることはできない。できないが「ただの情事」で終わることもなかった。

 OL時代に初めて行った海外旅行の行き先がたまたまタイだった。修子にとっては、「一番居心地のいい場所」がたまたまカンボジア難民のキャンプだったのだ。「人道的な理由」がきっかけであれば、恋人のいる東京にいつか戻ることも考えられるが、彼女の場合そうではなかった。

 樫村修子は「ある意味ではずるい仕事」だと言う。「自分がやっている仕事の意味に疑問を感じることは絶対にない」からである。キャンプの仕事はキャンプでしかできない。彼女にとっては野山との出逢いも運命的だったが、運命的に巡り会った仕事を手放すことはできない。結局、彼女の選んだ場所を、彼が自らの場所として選びとる決意をする。

 『タマリンドの木』は「恋愛小説」である。設定された異性間の障壁の現代性がこの作品を現代の恋愛小説たらしめている。また、そこには、ある問題系に対する態度の多様さ(野山の決意に異を唱える親友、修子ら と共にキャンプで働くタイ人の立場等)が各人に正当性を与えられ描かれている。

 私自身がカオイダンを訪れたのは、「タマリンドの木」が『文學界』に発表されたのと同じ1991年春である。物語中の野山隆志は、「親兄弟がたくさんいる家に婿に行く」覚悟で修子のいる地へと赴いたが、現実の私には何もできなかった。しかし、そうした現実から逃げ込むための場所として「文学」を考えることもできない。死んでいく人間とそこで働く人間とを実見したであろう池沢夏樹は、修子の人生とは無関係だったはずの野山が彼女のパートナーとなり得たように、過酷な現実と「文学」共同体との間にも、突如として通路が拓ける可能性を信じてこの小説を執筆したのではないだろうか。

 経済からみた「世界」において、男女間の不均衡(機会の不平等)は確かに是正の方向へと向かっているが、貧困をめぐる地域間格差は一向に縮まらない問題として残っている。そうした現実を背景にして成立する『タマリンドの木』のような作品を、私はひとまず「南北問題」の文学と呼んでおこうと思う。

(『社会文学通信』第58号より転載、一部改稿)


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2000.06/13

No.002  戦争とメディア

土屋 忍

 

ブックガイド;
[竹山昭子『戦争と放送』(社会思想社、1994年3月)]
[清水晶『戦争と映画』(社会思想社、1994年12月)]
*本文の引用を、<>で示した。

 一台のテレビをみんなで囲む。あるいは同一の番組を知らない者どうしが視聴する。電波共同体が形成され、統合的な世界イメージが紡がれてゆく。そのような関係性が生成する場所を、マクルーハンは「地球村」(global village)と呼んだ。その後オングは、電話・ラジオ・テレビ等が生成する電波環境に着目し、「文字の文化」(literacy)を経由した二次的な「声の文化」(orality;文字にもとづく声の文化)を見出した。

 テレビがネットワークを組んで全国メディアとして普及しはじめたのは、第二次世界大戦終結後(日本は1953年)である。テレビが登場する以前、マス・メディアの主役はラジオであり、映画であった。それらは新聞・雑誌・書籍をはじめとする「文字の文化」と交錯しつつ併存する「声の文化」であった。「大東亜戦争(太平洋戦争)」をいち早く伝えたのは、上意下達の電波情報であり、戦闘場面を含めた「戦時下の日本(人)」の風景を感覚に訴え続けていたのは、検閲下のスクリーンであった。「戦争」という共通のフィルターを通して見えてくるのは、ラジオや映画が、イメージとしての「日本村」を実体化する視聴覚メディアだったということである。

 竹山昭子氏の『戦争と放送』は、<太平洋戦争下の放送の実体を原史料に語ってもらうことを目的として編まれたもの>(「まえがき」)である。本書は、1925年の放送開始時からすでに<ジャーナリズムたり得なかった>ラジオ(放送)が、戦時色が濃くなるにつれて<国家の宣伝機関>と化し、戦争空間の拡大に積極的に参与する様を描いている。そもそも多くの人々に「開戦」を認識させたのは、1941(昭和16)年12月8日午前7時に大本営発表(同日午前6時)を告げたラジオの臨時ニュースであった(注)。本書によれば、当日の放送で情報局の役人が次のように呼びかけたという。<いよいよその時が来ました。(略)政府は放送によりまして国民の方々に対し、国民の赴くところ、国民の進むべきところを、はっきりとお伝え致します。国民の方々はどうぞラジオの前にお集まり下さい>。「ラジオの前」に「国民」を集めて繰り広げられたのは、戦局経緯の伝達とその拝聴という儀式だけではなかったようだ。番組と番組の間には、あたかもCMのように軍歌や行進曲が挿入され、軍人や役人、政治家による「講演放送」は定着した。「講演放送」は出版・レコード化(メディア・ミックス)され、「勝利の記録」と題する番組は、負けても負けても続行した。「原爆投下」情報は伏せられ(ディスインフォメーション)、公表の遅れは被害を余計に大きくした。無論「玉音放送」は、周到に仕掛けられた(メディア・イベント)のである。それらはすべて「国民の進むべきところ」を指示するための演出であった。ラジオが多様な形式で伝えていたのは、ひとつの方向へと導く特定の内容だったのである。ラジオが志向していたのは、「耳のメディア」からはじまる「身体のメディア」であり、立体的な祝祭空間の形成であった。「ラジオの前」で居住まいを正し、ほとんど解読不能の「玉音放送」を賜る聴取者たちの姿は、今日から見れば、あたかもリアルな演技者のようである。信の体系の外にいる者にとっては、まるで映画のワンシーンである。放送を媒介にした映画的空間の創出は、「玉音放送」の日まで周到に隠されていた天皇の肉声が、ラジオの向こう側で持ち続けていた信じがたいほどの力によるものであった。

 戦争という時空間の中では、映画も放送と同様の状態であった。もちろん映画は放送よりも古く、都市部に限られた存在ではあるが反体制を表現する歴史もあわせもっていた。「映画法」に反対した岩崎昶、『戦ふ兵隊』(東宝、1939年、非公開)や『小林一茶』(東宝、1941年)を監督した亀井文夫は、治安維持法違反で逮捕された。治安維持法とともに始まり、もっぱら一局のみの公的機関が広範な地域をカバーしていた放送と映画とを安易に括ることはできない。清水晶氏の『戦争と映画』にも、そうした映画ならではの表現史上の振幅が具体的に描かれている。しかし、基本的にこの書は、著者自身が述べているように、<まだテレビのない時代に、映画という視覚的な具体性を持ったマスメディアが、戦争という“大きな国策”の中で、どのように対応し、どのように操られたか>を、世相史や著者自身の体験をまじえて記録している。ある程度自立した媒体であった映画もまた、「操られた」のであった。当時<我が国最初の文化立法>と謳われた「映画法」に保護・干渉されながら、映画のもつ力は“大きな国策”に利用された。「時事映画」(ニュース映画)・「文化映画」(記録映画及び教育映画)・「劇映画」といった形式が、「戦争」という出来事を編集し、宣伝し、共同体の記憶を創造したのである。現在のテレビになぞらえて言えば、「劇映画」を上映する合間に流された「時事映画」、「文化映画」は、「現実」を編集したニュース、ドキュメンタリーであり、『ハワイ・マレー沖海戦』(東宝、山本嘉次郎監督、1942年)をはじめとする劇映画の多くは、ニュースやドキュメンタリーからの知識を前提とした再現映像であった。当時の映画は、放送ニュースを視覚化する報道機関でもあったのだ。「大日本帝国」は、「聖戦」を遂行するために「国民」を統合し、「日本村」を建設しようとした。「地球村」がそうであるように、「日本村」も半面はユートピアであった。ユートピアとしての「日本村」を根底で支えていたのは、天皇制と軍制である。放送と映画は、いわばその尖兵であった。尖兵に求められていたのは宣伝力である。さまざまな方法でなされた戦争報道は、つまるところ軍の強さ、軍の権威を宣伝していた。「聖旨」・「大詔」・「御稜威」・「国体」・「大御心」・「皇恩」・「天祐」・「玉砕」・「聖戦」といった決まり文句(キー・シンボル)は、天皇崇拝を表現し、暗に天皇を宣伝し権威の創造を果たしたものと思われる。権威あるものを持ち出して、人々の気をひき信用を得ることだけが宣伝技術(プロパガンダ・テクニック)なのではない。むしろ、権威そのものの生成・再編成・擁護・強化に向けて、複眼的な仕掛けを用意するところに、その真骨頂はある。権威が宣伝を利用しているのではない。宣伝が権威を生み出すのだ。そして、電波共同体の多数派の無意識がその力を支えているのである。『戦争と放送』『戦争と映画』という二冊の書物は、こうしたことをあらためて想起させてくれる。さらに、「声の文化」・「文字の文化」という垣根を越えて、表現と宣伝ののっぴきならない関係へと想いを誘うのである。

 「開戦」直前に誕生した「南方徴用作家」の多くは、「宣伝班員」であった。その背景には、「文字の文化」を代表する文学(者)に宣伝力が内在するとの認識があったと考えざるをえない。文学者を文学者とし て戦地に派遣し宣伝業務にあたらせるという発想は、1933年にはじまるナチス・ドイツのプロパガンダ戦略に端を発している。放送や映画を文化機関とみなし、国策に活用するという発想も同様である。文芸誌の 『新潮』(1939・11)では、「文化機関としての新聞・ラジオ・雑誌」というテーマが組まれ、新聞、ラジオ、雑誌の欄をそれぞれ津久井龍雄、板垣直子、青野季吉が担当している。しかし、メディアの宣伝力を文 学表現上の問題として危機的に捉えた者はいなかった。すでに小林秀雄は、「宣伝について」(初出不明、新潮社版『全集』の推定にしたがえば1937年末に発表)において、「眞の文學が宣傳と戦はねばならなくな つている」という現状認識を示し、「宣傳と文學との相違」を「歴史の動きを創り出す力」の有無に求めていた。しかし、そうした危機意識が広く受け継がれることはなかった。そして危機感を自覚していた小林に しても、宣伝の創造性にまではその想像力を届かせることができなかったのである。

注:「開戦」の年、昭和16(1941)年に受信契約数はすでに600万に達している。総世帯数約1400万のうちの600万であるから、「日本村」建設のためには充分な普及率であったといえる。

(『戦時下の文学』文学史をよみかえる4、インパクト出版会、2000年2月、249〜252頁より転載) 


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2000.04/**

No.001  現代小説を食べる

くらげのイメージと現代小説の一徴候

山崎義光

 

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが、人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎ出さずにはいられなくなるだろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかないものである。  (坂口安吾「堕落論」)

 何事につけ、カッチリとした規範的なものをウザったいと感じる傾向。そういうのが、今どきの傾向なのではないか。
 しかしながら、なんらか規範的なものへの抵抗・反抗といった反発、離脱感としてではなくて、もっとあどけなくも、とりとめのない感触として、かたちならぬかたちを求める傾向だということ。
 だから、たとえば、坂口安吾の初期の小説にあったような身体感覚は、半世紀前にあっては、挙げたような「堕落論」のようなものに帰着せざるを得ない。つまり、「処女」「武士道」「天皇」といった、かくあるべき旧来の規範を否定しつつも、他方で「自分自身の武士道、自分自身の天皇」という新たな規範を求めようとする指向性が、つきまとっている。
 しかし、今読む現代文学にあっては、規範をもとめようとする傾向なしに、ひたすら「堕ちる」ことが求められているように思える。たとえば、こうだ。

マキガミが腰を両手で引きつけながら、最後の激しいインサートに移る。あたしは半ば意識が麻痺していた。それでもさらに暗い本能の根源に引きづり落とされていく。それはどこまでも永遠に「堕ちる」という、目まいががするような落下感覚に似ている。/その時、あたしは物体になることの暗い喜びを知った。/限りなくマゾヒスティックで被支配的な、そして限りなく死に近い至福感。/このまま永遠に死んでしまいたい。/もう感覚や思考などという邪悪なものはいらない。/冷たい海底の墓場で、死んだ珊瑚のかけらのように砂になる日を夢見ていたい。  (桜井亜美『ガール』幻冬社)

 思うに、堕〈落〉という場合のように、落下とか、飛翔といった、上下運動のイメージが採用されているのは、重力(自然)に対する人為(規範)の意識の喩としてふさわしいからではないか?
 しかし、引用の「堕ちる」ことのうちには、旧来の規範からの脱落意識もなければ、「自分自身の」規範を求道するようなそぶりも、ほとんど読めない。
 最後が、海の底の砂のイメージで締めくくられたことのうちに予感されているように、重力の規範がゆるめられた場所としての、海に漂うイメージこそ現代にはふさわしいのかもしれない。あるいは、重力の圏外、すなわち、「宇宙」こそ。

 数年前に、東京のOLの間でクラゲを飼うことが流行っているというニュースをやっていた。とっさに時代感覚をよく表象していると、なんだか納得してしまった。感性というのは、鋭くも、くどいまでに饒舌だと思った。
 そう思って、ふと思い出していたのは、私の知る数少ない金子光晴の詩の一つ「落下傘」と、「くらげの唄」。

 「神さま。
  どうぞ。まちがいなく、ふるさとの楽土につきますように。
  風のまにまに、海上にふきながされてゆきませんように。
  足のしたが、刹那にかききえる夢であつたりしませんやうに。
  万一、地球の引力にそつぽむかれて、落ちても、落ちても、
  着くところがないやうな、悲しいことになりませんやうに。」(「落下傘」)

 この詩は、おちつくべき「ふるさと」への指向において読まれるべきではなく、むしろ「風のまにまに」「ふきながされ」るという「落下傘」のイメージのうちに自己の形象化をなしている点に、そして、否定されながらも「海」のイメージを招き寄せている点にこそ、読まれるべきコトの予感があるというべきだろう。
 だから、こういう詩も書く。より現代的だろう。

 ゆられ、ゆられ
 もまれもまれて
 そのうちに、僕は
 こんなに透きとほってきた。
 
 だが、ゆられるのは、らくなことではないよ。
 外からも透いてみえるだろ。ほら。
 僕の消化器官のなかには
 毛のちびた歯ブラシが一本、
 それに、黄ろい水が少量。
 
 心なんてきたならしいものは
 あるもんかい。いまごろまで。
 はらわたもろとも
 波がさらっていった。
 
 僕? 僕とはね、
 からっぽのことなのさ。
 からっぽが波にゆられ、
 また、波にゆりかえへされ。
 
 しをれたかとおもふと、
 ふぢむらさきにひらき、
 夜は、夜で
 ランプをともし。
 
 いや、ゆられてゐるのは、ほんたうは
 からだを失したこころだけなんだ。
 こころをつつんでゐた
 うすいオブラートなのだ。
 
 いやいや、こんなにからっぽになるまで
 ゆられ、ゆられ
 もまれ、もまれた苦しさの
 疲れの影にすぎないのだ!     (金子光晴「くらげの唄」)

 もう一つおまけに、この場にふさわしい昭和初年代の小説から付け加えておこう。

 これら一切の風景や人間の肉体や顔面はなぜ濾過するために私の性格の歪みを必要とするのか。無邪気な少女は、樹のそよぎは、なぜ単純にそれだけの意味で私に私に入って来ないのか、それ等が私を通して反映されるときにそれ等のものに責任のない醜悪な意味と歪んだ印象のみが私から出てゆくからと言って、なぜ私は私の表情や眼つきをつけ狙われなければならないか。いったいどんな表情をして歩いてはいけないというのだ。それにしてもあまりに非力なことだ。私はただ不具な屈折をする半透明物で、掴もうとする指から流れ落ちる水母のようなものではないか、私はただもの憂く街の店々を眼にうつしているのみであった。

(伊藤整「イカルス失墜」 講談社文芸文庫)

 これらと、最近の小説を読み比べてみる。

 わたしは久しぶりに桐子と一緒のベッドに寝た。水槽の明かりが本棚に並んだホルマリン漬けの瓶をほのかに照らすこの部屋では、いつも不思議な夢が見られる。なぜか海の夢が多い。わたしは桐子と一緒に海中に沈められたガラス張りの広間で深海魚の群を眺めたり、人魚になって浜辺で遊んだり、空飛ぶ絨毯に乗って夕暮れの大海原をどこまでも疾走したりする。金色に映る空と海の区別もつかなくなって、波のような雲のようなうねりを見つめるうちに、ふとわたしはどこに行くのだろうと思う。わたしはどこかを目指している。どこにも行き着けない。そんな思いがたかぶってきて、明け方になると少し悲しい気持ちで目が覚める。
    (佐藤亜有子『ボディ・レンタル』)
  

 服のことは全くわからないけれども、クラゲ的な、海中にただようイメージと、その近傍として理解しうるかたちは、服にも浸透しているのではないかと、漠然と思えるがどうでしょう。
 鷲田清一『悲鳴をあげる身体』には、こんなことが書いてある。

 たとえば、野良着のような七〇年代の高田賢三の服、そのゆるんだかたちや模様の重ね、三宅一生の「一枚の布」というコンセプトにみられた野性的な身体性への関心、そして川久保玲と山本耀司のアンチ・モード……。これらは服が服でなくなるような瞬間というものに触れていた。形がたえず変わる服、穴だらけの服、破れた服、ほつれた裾、だぶつく服、崩れたかたち、脱色あるいは黒のモノトーンの生地……。〔中略〕このようなアンチ・モードの襲撃は、衣服の構成、ないしは身体と服との関係に別の原理をもち込むという意味で、衣服というものへの根元的な問いだったわけだが、それまでのヨーロッパの伝統的な服作りからすれば、スタイルの破壊あるいは服の解体と映ったのであった。
    (『悲鳴をあげる身体』)

 びらびらとした、「海藻のような」! 服を妄想(私はちっともどういう服なのかはわからないから、あくまで妄想)する。
 それは、あるべき「伝統的」「スタイル」という規範から漂いだして、「解体」とか「破壊」というような規範からの離脱というよりも、むしろ端的に規範「消失」的なものなのではなかったかと空想する。

 『ボディ・レンタル』は、肉体そのものをモノ(服!?)として、他者に差し出す女主人公「わたし」(マヤ)の物語だけれども、そこで問われていることの一つは〈わたし〉は身体をもっているのか? ということ。
 自己の身体の所有権=可処分権(わたしの体は、わたしのもんなんだから、どうしたっていいでしょッ)を、徹底してクールに押し進めようとする「わたし」。
 「要するに心と体とか、わたしとあなたとかの関係性が薄いところに成り立つ身体感覚のことを言いたかったの」という「わたし」(マヤ)は、その断片化した自己、他者との関係の感覚の希薄さゆえに、自らをオブジェとして投げ出すことができる。他方で、マヤは、桐子との強い人間関係を大事にしているのである。
 ところで、この小説の中で、「わたし」は、自らを「殻のないヤドカリ」とイメージしている。
 これは、大澤真幸が、次のように現代の若者をイメージして「甲羅のない亀」と呼んでいるのと通底するイメージであろう。(カフカ「変身」と対照的なイメージ?)。

 僕も大学で教えていますので、若い人たちを日頃から見ていますが、人間関係の作り方が下手だとは思うことがよくあります。そういう若い人たちの精神のあり方を見ていると、「甲羅のない亀」といったイメージを持ちます。(中略)
 ひとりで引きこもって完全に孤独になり、自分ひとりの世界を作って満足しているかというと、そんなことはないんです。傷つけないけれども、自分の内面をストレートに分かってくれる、非常に直接性の高い友人関係といいますか、そういうものを求めているという感じも持ちます。 
 (大澤真幸・町沢静夫・香山リカ『心はどこへ行こうとしているか』マガジンハウス 1998.10)

 これだけ読んで、ちょっと手を加えれば、『ボディ・レンタル』の解説にもなりうるだろう。(もちろん、大澤がこの小説を読んでいる可能性は十分に考えられる)。
 ただし、大澤は、このあとでは、「甲羅のない亀」の典型として「オタク」をあげている。オタクとは、コミュニケーションの様式にかかわる現象であり、自己と他者が異なっているという前提で成り立つパブリックな関係には弱いが、同質の者とはダイレクトに関係をもちたがるのだ、と特徴づけている。
 その点、『ボディ・レンタル』のマヤは、他者にオブジェとして自己の身体を投げ出してしまう点で異なる。パブリックな場こそ喪失しているけれども、異質な他者との関係をもちたがっているとはいえるからだ。
 そう考えると、「亀」ではなく「ヤドカリ」であることの意味の違いは大きいのかも知れない。マヤにとって「殻」どころか、肉体そのものが「カリ」た「ヤド」だからだ。
 被虐的な位置に身をおき、全くの他者と接触することで、つまり、パブリックな関係が喪失していながら、底支え的にいたりつく地平ではじめて、自らの官能をも受け容れ、自己と他者との関係を受け容れる。
 ラストに描かれる異様な王権的結婚の儀式のイメージは、結婚にいたりつくと観念されるロマン主義的な性愛のイメージを外郭としつつも、モノとしてもてあそばされる自己のボディと他者たちという欲望の海の中に、もはや自己の身体ならぬ身体をさらし、漂うことで、全的に受け容れるわけだ。

 

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