2001.10の「ヤマザキ3行日記」

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#2001.10/26    把えがたい自殺する<身体>の位相

 「親の自殺による高校生の奨学金申し込み急増」の見出しで、痛ましい報道が出ていた(asahi.com 2001.10/26)。親が自殺した遺児からの日本育英会への奨学金出願者数が、「98年度の21人から99年度は97人、昨年度は144人に増えた。高校奨学生のうち自殺遺児は、3年前は2.2%だった。今年度は13.7%にのぼっている」とのことである。
 かつて、プロレタリア文学において、労働者は、「セメント樽の中の手紙」(葉山嘉樹)に代表されるような、抑圧・搾取される"破砕する身体"として描かれたことはよく知られている。第一次、第二次産業に就労する労働者の肉体に対して、社会的な負荷がフィジカルに加わっていた事態を端的に形象化したのである。
 戦後以降、第三次産業就労者の割合が増大し、第一次、第二次産業就労者数を上回ることで、圧殺され破砕する肉体として形象されるプロレタリア文学的な造型は統計的に標準ではなくなっている。その分だけ、目に付きにくい抑圧となって<身体>をさいなむことになった。
 そういう文脈において自殺を理解するならば、今起こっている自殺は、「自ら」の死としてのみ理解はできないというべきである。と同時に、抑圧するものも端的な「機械」ではなくなり、「人工」的なと形容しうるような機構やシステムに従ったものではなくなっている。しかも、それは「心理的」なものですらない。「心理」なる概念自体が、「物理」と対としてはじめて意味をもつ概念だったのだから。

#2001.10/25    共同性

 4勝1敗でヤクルトの優勝。近鉄は、やっぱり不発に終った。
 季節の変わり目である。

 同時多発テロから炭疽菌事件、狂牛病騒ぎ、不況・リストラ、大学改革。さかんに報道される出来事を読みながら、共同性についてつらつら思う。
 ゲマインシャフト(地縁・血縁などの自然な結びつき)からゲゼルシャフト(観念的、目的合理的結びつき)へ社会が変動し、世界戦争を契機として地球上の人間社会が世界化したとき、席巻したのがマルクス主義だったのは、それが新しい共同性のあり方を示したからだったということができる。それは、隣のおやじと口を利かなくなる一方で、「大衆」と口にすることでリアリティを感じ、そのリアリティに支えられてはじめて隣の人と連帯感を感じるようになった時代でもあった。しかし、20世紀の終わりにあきらかになったのは、そういう仕方での「みんな同じ」式の共同性が不可能であることだった、というように言える。
 そういう文脈で、では、今起こっているのはどういうことだろうかという意味で、共同性についてつらつら思う。
 一方で、あきらかに、20世紀の共同性は、新聞雑誌からテレビへというメディアが可能にした共同性の様式だったといえる。もちろん、今でもそれらのメディアは、活きている。他方で、IT技術の席巻によって、ネットワークが共同性のあり方を推測する重要なコンセプトになっている。
 個々の<身体>は、かつては「孤独」「淋しさ」をキー・ワードとする孤立した身体として語られたけれども、今のリアリティはそういう語り方ではうまくとらえられないように感じられる。適当な言い方は思いつかないが、「個」とか「淋しさ」を「実感」したりする質的な実体自体が拡散・溶解し、身体の質感が希薄になっているように感じられていると言った方が適当なように思われる。そういう時代の共同性について。

#2001.10/14    「尊皇攘夷」

 奥泉光『坊ちゃん忍者幕末見聞録』(中央公論新社2001.10.10)が出版されているのを、たまたま行った梅田のジュンク堂で見つけて買った。これもたまたまであるがサイン本だった。『グランド・ミステリー』も京都の(今はなき)本屋でたまたま見つけて買ったらサイン本だったから2冊目である。作家のサイン本を別段欲しくて買いに行くわけではないのだが、奥泉光のサイン本とは縁がある。(というか、他の作家のサイン本は持っていない)。
 読んでいる最中なのだが、お話そのものとしては、「坊ちゃん」的文体(あくまで「的」)を採用した、例によって饒舌な語り口で、幕末(文久三年)に東北の田舎侍が京に出ての見聞録といったストーリーである。幕末の武士であるから、「尊皇攘夷」が話題となる。

 中学生の頃にずいぶんと幕末物の歴史小説を読んだものだった。が、その当時、なぜ「尊皇攘夷」が「開国」路線にかわっていったのかについて、単純に「攘夷」が不可能だから「開国」路線に切り替わったのだという程度の理解しかできず、今ひとつ腑に落ちないものが残っていたものだった。
 「そんのーじょうい」などという言葉は、歴史上の言葉にすぎず死語のようにも思えるが、そもそも「攘夷」は欧米の植民地主義に対抗する必要からであるのだし、「尊皇」は対内的に従来の「将軍」を超越するための理念的統合点として呼び出されていたと考えれば、なるほど、「尊皇攘夷」が「尊皇開国」に展開したのも、対内外にむけた近代国家としての自律の運動であったわけだ。思えば、つい近年でも、地方都市などで「外国人」お断りの店が続出していたなどというニュースがあって、独自に「攘夷」運動をしていたことを思えば、言葉は失われても、社会的な枠組みにおいては変わらないシステムがはたらいていた(る)といえる。戦後は、「尊皇」を形式化して実質を低減したといえるが、失われたわけではなく、日本という国家システムの大枠は維持されており、統合点は国旗だのの形で日本のみならず、近代国家の枠組みに必須である。逆に言えば、統合点さえあれば、国家に拮抗する統合が可能だったりする。
 今は「尊皇」なしに「開国」は可能かが問われているのか。あるいは、そうではなくて、それぞれの「尊皇」を抱えこみながら、いかに「開国」できるかが問われているということになるか。

#2001.10/11    地盤の溶解

 同時多発テロ、狂牛病、そしてアメリカでの炭そ菌感染者の発生にテロの疑いがかけられるなど、立て続けに報道がながれている。
 保険会社は海外旅行の保険について、テロ関連の事件に巻き込まれた場合には、9月11日の同時多発テロ事件については適用しないとのことだが、今後は「戦争による被害を補償の対象外とする「戦争危険免責」条項を適用する」とのことである。
 生物・化学兵器によるテロ対策が報道されてもいる。炭そ菌の発見されたフロリダ州の会社からワシントンの会社に荷物がとどけられたために、ビル内の人が一斉に退去し診断まで受けるという騒ぎもあったとのことである。
 確実な指示対象をもたない表象の強度と、実際に起こる出来事のノンセンス(非・意味)こそがリアルな「現実」である。「事件」というべきか「事故」というべきかも定かでなく、偶有的な出来事に巻き込まれる可能性が増大して、そのことへの不安こそが「現実」を構成していくという事態が、いよいよ常態となってしまった。

#2001.10/02    ヤクルト優勝決定せず

 勝てばヤクルト優勝決定の試合。1対1のまま延長戦。昨日の巨人最終戦は観衆五万人。和田の引退試合でもあったからでもあろう。それに対して、今日は二万人だそうだが、スタンドはガラガラである。
 しかし、それにしても、だらけきって緊張感のないゲームで、これが優勝が決定する試合かと思うとなげかわしい。実際には、ヤクルトは全部負けても優勝だからだろうか。
 延長に入って投げていたヤクルトのピッチャー、ニューマンは、ファーストゴロでベースカバーに入らなかったりしていた。緊張感ゼロ。阪神は阪神で、遠山は四球でさがり、上坂はイージーなゲッツーのケースで送球ミスをする。
 途中席を立っても何も起こるような気がしない。ホームランなど間違ってもでそうにない。実際何も起こらない。ヤクルトのベンチは、もはや消化試合でもしているかのような感じで、間違っても胴上げなどしそうにない雰囲気である。(しかし、優勝はもはや確実なのだから消化試合には違いない)。
 場内放送がやけに大きく虚しく響いていた。
 延長12回の最後の打者稲葉の打球は右中間にあがったが、だらけきった試合にふさわしく、フェンス際であえなく捕球されて、優勝はもちこし。あげくにその裏には、送球ミスで阪神にノーアウト1,3塁のチャンスを与え、結局阪神のさよなら勝ち。しかし、このさよならヒットもちっとも劇的でない。
 まぁ、こんな特筆に値する盛り下がった試合で優勝など決まらぬがよいのかもしれぬ。
 ただし、このゲーム、アナウンサーは「実に淡々としたゲームですねぇ」と語っていたものだが、そのアナウンサーの語り口自体が実に淡々としていて、ゲームの盛り下がった印象に半分くらいは手を貸していたことは書いておかなければならない。

#2001.10/01    満月

 今日は、夕方、小汚い団地の向こうに寸断された夕焼けが見えたが、夜になると「うずまき」のロゴによく似た満月がくっきりと見えた。
 すっかり秋です。

YAMAZAKI Yoshimitsu
E-mail:yymzk@fo.freeserve.ne.jp