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過去の日記 since 06.Jul.2000
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#2003.10/25    モリオカのフリに応えて(テレビ視聴率操作事件)

 そろそろ「日記」に看板下げなきゃダメかな。。
 「モリオカ日記」(2003.10.25)で話を振られたので、久々に。

 日テレのプロデューサーが視聴率のリサーチ対象宅に手を回して視聴を買収し、視聴率を稼ごうとした事件が10/24に流れたことについてのコメントということだが、このニュースは、私などが見ていてまず思ったのは、「はぁ、なるほど、視聴率というのはそういう風に割り出されているのか」ということだった。そして、視聴率という「成績」がいかにテレビ制作者たちを拘束しているかということ。なるほど、そういう制度のなかでやっているのかと。つまり、テレビ制作という場がどのようなルールと仕組みによって構成されているのかという枠組みを知った。このニュースの価値は、その犯罪性よりもむしろそのへんにあったと見た。
 視聴率などというものは、見ている者にとっては、直接には意味のないものだ。向こう側で決められた番組という閉じられたものの中から、視聴者は見たいものを見、見たくなければ無視する。テレビの番組や報道でさえも、提供されるものしか見る事ができない。面白かろうがつまらなからろうが、あるいはどこまで信用していいかわからないと見ている誰もがある程度認識しているにもかかわらず、他に信用しうるものもないから、さしあたって「世の中のすがた」をテレビからイメージし、それを元に割引したり足したりしつつ従って、「世の中のすがた」というものを認識しているというわけだろう。
 ところが、提供した番組という閉じられたものの中での「視聴率」によって、今度はまた放送される内容が左右されていくのだから、視聴者が見たいから放送する、テレビ局が放送するから見ているという内部化された循環が生じる。制作している側は、この閉じられた系をやぶり、かつ視聴率を確保するという課題に取り組むことになるが、統計学的に構成された気紛れな「視聴率」に強く拘束されているのであれば、閉塞感も強まるという仕組みになっているということだろう。
 事件について、テレビ制作関係者たちのコメントが報じられていたが、それは「起こるべくして起こった事件」、「信じられない」といったものだ。「起こるべくして起きた」というのは、テレビ制作の場が、強固な閉塞的制度にがんじがらめにされているという事、そして、その制度を食い破る出来事の発生によって、制度の拘束力の強さが表沙汰になったということだろう。「信じられない」というのは、客観的であるべきルールに違反したことに対するものだろう。いずれにせよ、強固なルールによって閉塞化していた制作環境を報じて、事件そのものよりも、そうしたシステムそのもののもつ問題を報じている。
 

#2003.07/18    初めての投稿記事をアップしてみた

 このHPのフォームから、はじめて見知らぬ方からの投稿を受けた。
 もうHPを開設して3年くらいにはなるのだから、これまでイタズラにせよなかったことが不思議だったのかもしれない。
 投稿を呼びかけていたことさえ失念! しているくらいだ。
 それで、せっかくなので、やはり雑文にアップさせていただきました。

#2003.07/08    働くことと世代間シャッフル

 鳥取県教委が、高校生にアルバイトのあっせんを始めるというニュース(asahi.com)。仕事を通して職業意識を身につけることが狙いだそうで、アルバイトは「学業の妨げになる」ため、これまでは禁止する高校が多く、文部科学省も「聞いたことのない試み」だという内容の報道である。
 今や、企業実習(インターンシップ)を始めている大学・高専は多いし、高卒で働く子らも多い学校もあるのだから、何も驚くほどのニュースには思えない。総合学習でもアルバイトまがいの職業体験をさせたりもするのだから、アルバイトをさせることくらい驚くにあたらないはずなのだが。
 思えば、半世紀前には、中卒が金の卵と呼ばれて集団就職していた時代があったことなどは、遠い昔の話にすぎない。高校進学率はほぼ100%になって久しいし、猫も杓子も大学へ行くようになって、大学が専門学校か職業訓練所のように認識されるようになった時代である。
 かつてアルバイトで家庭教師に行っていた家のおじさんは、中小企業の社長で、若い頃の苦労話をよく聞かされた。家の仕事を手伝いながら受験勉強したという二宮金次郎ばりのそれである。だから息子に対して教育にかける金はおしまないのだと。これまた、どこでも聞くような話にすぎないのだけれども、そういう、10代の若者にとって「勉強は仕事だ」という認識が壊れつつあるということの一端が、件のアルバイト斡旋ニュースの驚きの調子に表れているということであろう。
 世の中は、雑多な人間の集合体であるのに、学校という空間は、同じ年齢の者たちだけを集めて生活することを強い、年齢差のある人間関係が形作られる機会は減る一方だ。地域共同体は老人クラブになってしまっているところが多いようであるし、地域サークル活動が活発なのは限られた範囲だ。
 10代の少年というエイリアン。

#2003.06/05    ”みんな”という視点

 何とはなしに直感的に「よいこと」と思うことの範囲はあいまいに広い。誰かにとって都合の「よいこと」、理想的だと思えるという意味での「よいこと」。

 前者は独善であったり、誰か(たち)にとってだけよいことで、端的に「気持ちがよい」という方に傾斜しており、その誰か以外の人にとってはよくないことが含意されるのに対して、後者はより一般的、普遍的、本質的に善だと思われていることで、誰も到達していない頂上あたりに見はるかされるのであるが、その境界はあいまいで、なだらかにつながっている。

 問題は「誰」にあるようだ。私と私たちにとって「よいこと」と、彼・彼女らにとって「よいこと」であって私と私たちにとってよくないことがあるとき、ある種の抽象化された”みんな”が想定され、この”みんな”は私でもなければ彼・彼女らでもないような”みんな”なのだが、その”みんな”にかかわって「よいこと」が、私にも彼・彼女らにとっても「よいこと」だとされる。

 あるいは、頂上を見はるかしてそこにいきつくことを前提として言う人もあれば、そもそも頂上そのものがいくつもあるわけで、しかも、頂上に登ることなど思ってもみないところで傾斜をよぎって向こうへいきたい人たちもいるのだが、傾斜に居をしめているかぎりにおいて、頂上が「上」であることには違いなく、重力には逆らえないといったその重力の負担を”みんな”の論理からうけとらないではいられない。

 よく見また聞くと、そこには多数派の論理が働いていたり、強者の論理がはたらいていたりする。だが、構成される論理は”みんな”のものだとされる。それなりに説得的な論理が、”みんな”の意見を代弁しているかのごときマスメディアによって語られたり、「科学的」知見として語られるなどして、構成される。

 公的な場での「よいこと」というのは、そういう”みんな”にとって「よいこと」に依拠した論理によって、大きな声で語られる。

 こういうことは事改めていうほどのこともないことではあるが、「よいこと」のなだらかに折り重なった現実に対して、”みんな”にとって「よいこと」の論理を垂直に交わらせることで、今の社会が様々に分節され、流動しているということをしばしば感じる。

 もう一つの問題点は、重力から誰もが逃れられないように、「身近ないちいちの言行」にかかわるところで、「問題」がコト挙げされることである。電車のなかでケータイで電話をすること、タバコを吸うこと、ゴミの仕分けをすること、ペットの糞の始末から、歳の違い、立ち居振る舞い、性差による言動のいちいちなどなど。タマちゃんをめぐる争いなど、そういうことを象徴する出来事であるようにも眺められる。
 端的に言って、一面において、些細な、どうでもいい、くだらない、大したことではない、私には関係ないと口走りたくなるようなところでそのコトは起こっており、にもかかわらず、「誰か」にとっては見過ごせない、不愉快な、また深甚な意味をもつコトであることもまた事実であったりし、その誰かと誰かとの間のなだらかな傾斜の差においてコトの問題たることがコト挙げされるのである。

 こういう環境のなかでくらしていると、お行儀のよい人たちは”みんな”の論理に盲従しがちで、そういうお行儀のよさに居心地が悪いが、かといって”みんな”の論理に勝る論理を構成するのが難しいとなると、面倒になるか愚痴と沈黙に押しやられ、他方で、コト挙げせねば居心地が悪くまた無視されると思えばこそ勇をふるって、あるいは誠実に、その”みんな”の論理にしたがい、またそこからこぼれる”みんな”に収まらない立場を主張するなどし、不愉快にもなるところをふるって、言ったりもする。

 元気に生きて行くには、これ、実に語りやめないことが重要な意味をもつ、そういう環境のなかに身をおいていることに、またとても疲れたり。
 そうなってみると、ナチュラルに鈍感であることが一番気苦労が少ないのでもあろうが、そうだれもができるわけのものでもないから、鈍感であるフリをしてみたり。

YAMAZAKI Yoshimitsu
E-mail:yymzk@fo.freeserve.ne.jp