ケータイやパソコンを使ったコミュニケーションがすっかり定着した昨今であるが、そういう電子的なコミュニケーション・ツールが一般化したことで、コミュニケーションの質そのものがどう変化しているのだろう。
語彙の貧困化現象は、電子的な書記ツールが一般化していくなかで、かつては大問題となった「国語問題」は、ごく自然に! 受け入れられるものになってしまっているような具合に事態が進行している。変換して出てこない言葉は使われなくなる。パソコンで表示できない字体は廃れていく。
WEBで流される情報は、閉鎖的な仲間内のコミュニケーションでさえも、つねに不特定の他人にもアクセス可能な状態におかれる。ブログのように、それはむしろ新らしい可能性として広がりつつあるところだ。しかし、実名で言いたいことを自由に書いていたら、どこで誰に読まれているかわからない。話の通じる相手にばかりあてられているわけではないということになる。メールで送った文章も、簡単に他人から他人へ送られてしまう可能性を持つ。その容易さは、手紙の比ではない。
発話者の身体のアウラが失われた状態での言葉のやりとりは、言葉を包み込む温度も湿度も重みも失われる。だから、メッセージには、誤解を恐れる意識がはたらいて、当たり障りのない、受け入れられやすいものになりがちである。
そういうことを意識し出すと、知らず知らずのうちに当たり障りのない表現の範囲に自己制御されていくようになるだろう。自由な情報発信と言われながら、実はそう自由には書けなくなってくる。
メッセージそのものの「物」としての存在感の希薄化は、発信・受信している「者」の希薄化とみあっている。「もの」としての質感の喪失。
コミュニケーションのツールが大きく変って、それによって一体何が大きく変ったかといって、何より変ったのは、誰に当てているのかという点だろう。相手の顔が見えない発話であること、相手の存在感が希薄な関係の中でのいわゆるクールなメッセージに変化している。同時に、発話者の存在感もまた希薄化している。最近では、WEB上に実名を書く人は減っているからますます希薄化は進行する。
誰が誰にそのメッセージを送っているのか。その発話者というメッセージのベクトルの起点と到達点である受信者が曖昧な状態のコミュニケーション。むしろメッセージに関わる存在者は、メッセージに遅れてそこはかとなく立ちのぼってくる者になった。
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