![]() |
1996(平成8)年度 編集長/加藤達彦
第3号 [1997.03]
お雑煮 / 山崎義光(D3)
このところ読んだり調べたり、研究室のみんなと(飲んで)語ったりしてきたことを背景に、この正月漫然と思ったことを書いてみたい。
先日プロ野球ニュースを見ていたら、清原の巨人入り報道で、PL学園野球部同窓会のようなものに出席した清原と桑田のインタビューにからめて、その同窓会(「哲和会」というらしい)の中心人物が紹介されていた。これは単なる同窓会ではなく、○○哲氏という、清原らより一つ年上で、大学時代に野球の試合でケガをし、両手両足が動かなくなった人を囲む(和)会であるらしい。その人がおよそこんなことを言っていた。「体が動かなくなって生きる望みを失い、『死にたい』と思ったが、両手両足が動かず『死ねない』ということを思い知らされたときに、生きていく気になった」。「哲和会」はこのような哲氏の「死」と近縁的に相関して生きる姿の周囲に集う会なのである。「死ねない」障害者を励ます会であるとともに、逆にこの哲氏の生きる姿に励まされ活気を与えられるという構造をなしている。この人物の名が「哲」氏であることが偶然にも示唆するように、これはすぐれて哲学的な構造だ。哲氏はいわば〈死〉に臨んだ本来的な実存(ハイデガー)であって、この一人物の固有の姿を鏡として介し、反省的 reflective に同窓生らが〈死〉の共有性においてむすびついている。〈死〉は、それを誰も経験しえず、この私に全く固有に訪れる事でありながら、しかし他方で「人は必ず死ぬ」がゆえに万人に共通のことでもあるという両義性をもっている。哲氏の〈死〉に臨んだ固有の姿を取り囲むことが、PL学園野球部同窓生の共有の場となるのも、このような〈死〉の持つ意味の構造に相即するといえよう。
この年末年始に帰省して私は、吉本ばなな『TUGUMI』を読んだ。私が吉本ばななの小説を読むのはこれが初めてである。つぐみは「生まれた時から体がむちゃくちゃ弱くて、あちこちの機能がこわれ」ており、「医者は短命宣言をしたし、家族も覚悟した」。この小説の人物関係もまた、「死の決まったような決まらないようなあいまいな毎日」をすごすつぐみを中心として、つぐみの家族と語り手白河まりあ、その他の親密な人間関係ができあがっている。先に述べたような〈死〉の性格は、生の時空間に空いた〈穴〉のようなものである。地表という共有される地盤にあらわれた空虚。つぐみが犬を殺された復讐に命を賭けて殺した犯人を落とすための「穴」を掘る挿話が後半の山場になってでてくる。この「穴」は意味深長であって、「穴」を掘ることによってつぐみ自身が病を悪化させ死に瀕する(だが死なない)とか、本気で「穴」に落として殺そうとしていたとかという因果系列の換喩的な意味以上に、〈死〉の隠喩としての意味をこの「穴」は担っている。そして、白河まりあによって語られる語りのレベルにおいては、このような人間関係の磁場が「多分2度と私はあの人たちと共に生活することはないと思」われる「つぐみのいた日々」、まりあにとって「私の心がかえるところ」として語られている。いうまでもなく「かえるところ」として観念される場所とは「ふるさと」と呼ばれる。この「ふるさと」は西伊豆の海辺を舞台としているが、この〈海〉がまた〈ふるさと〉の隠喩である。〈海〉は地表に生きざるを得ぬ人間にとっての〈穴〉であるといえるが、〈穴〉が単なる空虚であるのに対して〈海〉はそこに水を湛え波打ち際に寄せては返す波がある点で、つぐみの〈死〉と近縁的で相関的な生きる姿の周囲に寄せては返すこの思い出話にとっての格好の隠喩たりうるのだ。
〈死〉という生の時空にあらわれる〈穴〉の周囲に集う(親密な・濃密な)人間たちという構図は、戦後の小説をみてもさまざまに形を変えて見出される。三島由紀夫『豊饒の海』第一巻『春の雪』冒頭の日露戦争時の写真は、墓標を取り囲んだ兵士たちという構図の写真であった。大江健三郎『万延元年のフットボール』を論じた笠井潔が注目しているように(1) この小説もまた、「1 死者にみちびかれて」冒頭から「早朝に浄化槽のために掘られた穴に潜り、腿と睾丸を泥水に浸して蹲っている蜜三郎の狂気じみた鬱屈」(笠井)の姿で始まる。これは村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』の「井戸」に蹲る語り手=主人公のイメージにひきつがれている。こうしてみると、〈穴〉=〈死〉=〈実存〉という意味的な連鎖は、現代的な構図をなしているように思われる。(ちなみに、述べたような大江や村上の小説のイメージは、ハイデガー哲学を批判的に受けとめたイマニュエル・レヴィナスの哲学を想起させるのも恣意以上の何かであろうと思われる)。さらに連鎖をつなげれば、私のいう〈穴〉は〈鏡〉的なものだともいえる。村上春樹『カンガルー日和』に「鏡」という短編(コント)があるが、この短編における鏡に映った自分の姿への恐怖は、ナシオの解説するラカンのいう「対象a」(2) (小文字「a」は、(小)他者 l´autre の頭文字だそうな)のようなものだともいえそうだ。これをさらに溯れば、ラカンがアレクサンドル・コジェーブのヘーゲル講義を受けて「鏡像段階論」を構想したと言われているように、その先蹤を、〈死〉を恐れぬ「主」と恐れる「奴」の弁証法的関係として論じたヘーゲル「自己意識」論における〈死〉に求められると思う。
近代小研ではこの三月に「昭和十年前後の“夢と知性”」と題して座談会を設ける予定だが、「昭和十年前後」に《問題》として浮上したのは、ヘーゲル流の「自己意識」であったと糸圭(すが)秀実(3) は論じている。これは先に挙げたような戦後の小説群に共有されている構図をみるとき、昭和文学に共有されいた構図の一つとしてうなずけるところがある。当時読まれたシェストフ『悲劇の哲学』で主に取り上げられたドストエフスキーの小説が『地下室の手記』であることがそれを端的に示唆している。そこにはこんな一節がある。「もしかしたら、人類がこの地上においてめざしているいっさいの目的もまた、目的達成のためのこの不断のプロセス、言いかえれば、生そのもののなかにこそ含まれているのであって、目的それ自体のなかには存在していないのかもしれない。目的ということなら、むろん、二二が四、つまり方程式以外のものではありえないが、しかし、よく考えてみれば、諸君、二二が四というのは、もう生ではなくて、 死の始まりではないのだろうか、少なくとも人間は、なぜかいつもこの二二が四を恐れてきたし、ぼくなどはいまでもそれがこわい」(新潮文庫 江川卓訳)。ここで言われる、「目的」と「プロセス」の対はこれまでの私の文脈に対応させて言えば「死」と「生」の対に相当するといえる。そして、「二二が四」(「方程式」)とは数記号として物象化した〈他者〉のことであって、「自己意識」論に引きつけていえば、「ぼく」が「いつもこの二二が四を恐れて」いるように、〈死〉を所有する「主」の準位にいる者のことであろう。
〈穴〉という深み(死)はまた、別言すれば他者性としての主観性のようなものだと言ってもよさそうだ。たとえば「山崎という人そのもの」と言うような場合の「そのもの」のことである。具体的な経験相で言えば、たとえば恋愛において求められる相手の存在そのもののようなものであって、これもまたそれと意識されるととたんに逃れ去る〈死〉と似た性格をもっている(4) 。〈死〉がそうであるように、つかもうと思う(思わされる)にもかかわらず、決して捕まえられない異和として感じ取られる虚焦点だ。「昭和十年前後」、保田與重郎が『ヱルテルは何故死んだか』において、ニーチェなどを参照しながら、真に自由な恋愛は結婚と逆立すると論じていたが、良識といわれる慣習に深く根をはり、法制度に組み込まれた結婚は、結婚の儀式(愛の誓い)や手続きにおいてその構造があらわにされるように、「主」に認知されること(物象化した第三者による認知)によって石化した「奴」の位置に身を落とすことであるのに対し、(真に自由な)恋愛は、何故その人でなければならないか、何故愛するかに答えることができないように、恣意的で偶発的な「そのもの」を信じることによってのみつながるような人間関係だ。現代において不倫やら横光の長編小説に先蹤をみる複数の男女の恋愛物語(例えばテレビドラマ「不揃いのリンゴたち」「男女7人夏物語」あたりから最近のなんとかまで枚挙に暇がない)がウケるのもうなずける。『若きウェルテルの悩み』、中河與一『天の夕顔』型の古典的な恋愛小説は、今やストーカーのようなものに堕すしかないのだろうか。(ちなみに、この逆立を脱臼せしめる一つの方策がM君論じるところの〈マゾヒズム〉的なストラテジーでもあったろう)。もとよりこれは〈物語〉的類型の話。実際の場面ではおのおの悩むしかないのはいうまでもない。
雑文を長々と書いてしまった。この文章の題が「お雑煮」であるのは、もちろん、「これを読んで窒息せよ」という私の挑発的悪意以外のなにものでもない。私流の「渦巻き」の実践である。「落とし玉」を渡したところで終りとしよう。
《注》
(1) 笠井潔『球体と亀裂』(情況出版 1995.1)
(2) 特に、J=D・ナシオ『精神分析7つのキーワード』(新曜社 1990.11)「ナルシシズム」を参照。
(3) 糸圭(すが)秀実『探偵のクリティック』(思潮社 1988.7)「自意識の覚醒――昭和文学の臨界」。
(4) 大澤真幸『性愛と資本主義』(青土社)所収の「孤独・性愛・信仰」「愛の不可能性と貨幣の可能性」、『意味と他者性』(勁草書房)所収の「意味と他者性」などを参照。