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  1995(平成7)年度  編集長/加藤達彦

  第9号 [1995.11]





  探偵的〈知〉 / 山崎義光(D1)


 この間(10月20日)、テレビで「新・刑事コロンボ」を見た。その粗筋は、次のようなものであった。犯罪捜査番組(犯人の追跡から逮捕に追い込むまでを番組にしたもの)“CLIME ALART”のキャスター、アンダーソンは、かつてポルノ映画に出演していた知られざる過去を持っていた。この番組のキャスターにつくときに蹴落とした、タバコ好きの友人ニュースキャスターB(名前を忘れた)がそれを嗅ぎ付け、黙っていてやるから“CLIME ALART”のキャスターを譲れと取引を迫る。アンダーソンは、取引の返答をしにB宅に赴いたところで、この男をタバコに仕込んだ猛毒のニコチンによって殺害する。コロンボは、この現場のタバコの吸い殻が吸われていないことを最初の手掛かりに、他殺であるとにらんで調査を開始する。例によって、犯人のアンダーソンに情報提供を依頼しながら、追い込んでいく。

 「刑事コロンボ」の見所のひとつは、コロンボが「容疑者」(コロンボが怪しいとにらんだ人物)と“とぼけた対話”をするところであろう。「うちのかみさんがね…」と世間話にかこつけながら手掛かりとなる重要な情報を「容疑者」から引き出す。そうしているうちに、容疑者(犯人)自身の口からヒントを、あるいは証拠を引き出していく。容疑者(犯人)にしてみれば、「自分は犯行とは全く関係ありませんよ」というふりをしているのだが、真相にいたる手掛かりをあたえてしまうわけである。こうして容疑者(犯人)は、自縄自縛に陥り、自ら犯人であることを示していってしまうことになる。

 “とぼけた対話”によって“真相―犯人”が現れていく、というこの番組の基本構造は、明らかに、“対話”によってしだいに相手の無知をあらわにし、“真理”を明らかにしていく《ソクラテスの対話》と同型である(1) 。コロンボの“とぼけた”ところは、ソクラテスが“無知を装いながら”質問していくことで対話相手自身によって、知を獲得させていくのとよく似ている。“とぼけた”顔して相手を自縄自縛に追い込んでいく過程のその犯人風刺は、まさしく《ソクラテスのアイロニー》である。

 哲学者ソクラテスが対話によって〈真理〉を明らかにするように、刑事コロンボも対話によって〈真相―犯人〉を明らかにしていく。〈哲学者〉が過たず真理を語る者である(あった)ように、〈刑事〉は過たず犯人をあげる。真理を探求しその保持者となるという〈哲学者〉と、真相追究から犯人逮捕に到達する〈刑事〉は、相同的な物語登場人物の類型である。

 ところで、「刑事(警察)」と「探偵」とはよく似て非なるものである。探偵小説において、しばしば、刑事(警察)は脇役で誤推理に基づいて犯人を間違え、探偵はその誤推理を正して真犯人を見つけだす。刑事(警察)と探偵の最も大きな違いは、刑事(警察)が制度の枠内の公務員であるのに対して、探偵は制度外で私的に捜査を請け負う。「私立探偵」という呼び名はあっても、「公立探偵」などとはいわないことが、そのことを端的に示している。「刑事(警察)」は事件の真相を追求する〈制度〉的機関に所属し、「探偵」は〈非制度〉的存在者である。したがって、探偵小説における刑事と探偵の勝負が探偵の勝利に終わることは、非制度的〈知〉の制度的〈知〉に対する勝利をも含意(コノテート)しているといえるだろう。これをもう少し説明すれば、真相は必ずや存在しなければならず、それを明らかにしなければならず、そしてまた犯人は必ずや捕まえられなければならない、というのが制度的〈知〉の代表者刑事の立場である。そこには、真相は存在しなければならないものであるという前提がある。それに対して、非制度的〈知〉の代表者探偵はもう少しゆるやかである。というのは、探偵には「〜なければならない」という前提がないからである。それこそが制度的/非制度的の違いである。もちろん、探偵も依頼者に対する責任があるから、真相を明らかにするという姿勢は貫かれる。しかし、それは制度―権力的圧力からは無縁でありうる。このような刑事と探偵の差異は、法廷における検事と弁護士の間にもあるといえるかもしれない。

 以上のような、刑事(警察)と探偵の違いを踏まえその〈知〉の様式の違いを、真相=真理を制度的に追求する「警察的〈知〉」と、真相=真理を非制度的に追求する「探偵的〈知〉」と呼んでみることにしよう。これは、モダンとポスト・モダンの〈知〉の状況の差異であるといえるだろう。そして、この差異は歴史の〈実在性〉をめぐる実在論/反実在論の対立とも通底すると思われるのだ。(ここで「反」実在論であることには注意。これは過去の〈実在性〉を完全に否定して、「そんなことはなかった」と言うような立場ではなく、素朴に透明な過去の〈実在性〉を主張し、それを疑わない立場に対して、とりあえず留保を突きつける立場である)。

 その例として、ここでは、〈アウシュヴィッツ〉の歴史記述をめぐる歴史家、哲学者の論争(2) のうち、ヘイドン・ホワイトとカルロ・ギンズブルグの争点を例に取り上げてみたい。この争点のうち、ここでは、中心的論点にかかわることを分かりやすく説明している糸圭(すが)秀実の論説(3) を引用する。(ただし、これはそれぞれの論文の紹介としては適当ではないことをことわっておく。)

  ホワイトは、歴史記述が言葉によってなされ、それが何らかの物語(ナラティヴ)を採用しなければならぬ以上、「真実=事実」のナイーヴな表象=再現は不可能だと言う。これは、或る意味では「常識」にほかならない。
 これに対してギンズブルグは、ホワイトの立場がファッシズム歴史学に近接することを指摘し、リヴィジョニズム批判で知られた歴史家ヴィダル=ナケの言葉を引用する。―「ガス室に関する言述を通過せざるをえないのだということはわかりました。しかし、これをこえたところに、これには還元しえないなにものか、よかれあしかれわたしがなおも現実と呼びつづけたいものがあるのでした。この現実がなくては、どのようにしてフィクションと歴史の区別はつけれれるのでしょうか」。ギンズブルグは、われわれが言う「真実=事実」――V=ナケの「現実」――への信憑がなければ、歴史記述は不可能だと言いたいわけである。

 糸圭(すが)は、このように争点を整理したうえで、V=ナケ―ギンズブルグの論理、すなわち「真実=事実」への信憑(言述に還元できない「現実と呼びつづけたいものがある」)が基本的に維持されているのは、〈ホローコースト〉が、西欧圏に住む人々がそこに「内属」した出来事であるからではないかという。糸圭(すが)は、要するに、身をもって出来事に関与すること、すなわち出来事への「内属性」という事態(あるいはまた、出来事の重要性)が、相対的ないしは遠近感によって濃密にもなるし希薄にもなるというわけである。そして、「現実」への信憑とは、その遠近感(身近な問題か、疎遠な問題か)によって強くも弱くもなるものだと言っている。

 これは、見知らぬ他人の死に対しては大した感慨も持たないのに対し、身近な知人の死であれば悲しい(「重大な」出来事である)というようなことを考えれば当たり前の事態であるといえよう。それを、「人の死が悲しいということに身近も疎遠もあってはならない」というとすれば、それは一種の硬直化した(〈制度〉的)「道徳」的観念ないしは「道徳」的語り口(紋切り型)を反復しているに過ぎまい。「人の死」だからいつでも悲しいのではなくて、この人・あの人の喪失が悲しいと感じるのだというのは、当たり前な感情の動きだろう。これを「悲しみの遠近感原則」と言っておこう。

 糸圭(すが)は、このような「悲しみの遠近感原則」が(別に「悲しみ」でなくともよいのだが)、「現実」への信憑へも色濃く反映すると言っているといえよう。例えば、(常にそうであるとは限らないが)身近な人の伝えるその人自身の情報をよりホントらしく聞くことがこれにあたる。それに対して情報の経路が間接化されればされるほどにウソっぽくなるだろう。そして、おそらくは以上のことを踏まえて、糸圭(すが)は次のように述べている。

「真実=事実」とは、やはり言説の政治的なヘゲモニー闘争の効果なのだ。客観的な「真実=事実」の存在という――それ自体としては維持されるべき(維持されざるをえない)――信憑さえ、それがヘゲモニー闘争のなかにおいてのみ存在することを不断にチェックしなければ、たちまち頽廃におちいる信仰になる。(傍線引用者)

 「頽廃におちいる信仰」とは、先に述べたところの、制度的な「警察的〈知〉」のことである。 は、「真実=事実」は無償で明らかなことではない、それは捜査・手続きを経て対立する意見との闘争のすえに獲得されるものなのだ、といっている。これが、歴史の反実在論的立場というべきものであろう。「真実=事実」は、それ自体として「実在」するのではなく、ある種の捜査・手続き・操作を介して作られるものなのである。

 例えば、「石ころを拾ったつもりが、たまたまそれを見せた人が考古学者だった。その考古学者がそれを見た後、調査を開始し、他のさまざまな資料を参照しながら、再構成の操作を加えて、石ころが、土器の破片であったことを明らかにした」とする。そうすると、石ころが土器の破片になるという〈経緯〉があるのに、土器の破片であるという結果が出た後には「最初から土器の破片であったものがシロウトにはわからず、考古学者によって真実が明らかになった」と語られることになる。これは、調査の結果が石ころの〈自己同一性〉(石ころがなにものであるか)に先行投射されて、「初めから土器の破片だった」と考えられ始めるということである。石ころの意味的変容の〈経緯〉は、石ころの〈自己同一性〉の認定によって忘却されるわけである。原因と結果の転倒ともいえよう。前者の〈経緯〉を重視するのが反実在論、後者の〈自己同一性〉のみを重視するのが実在論ということになろうか。注意すべきは、反実在論は後者を排除しないのに対して、実在論は前者を排除するということである。

 既にお気づきの人も多いように、「石ころ」を《作品》、「土器」を《作者の意図》と読み替えてもよい。だとすれば、《作者の意図》なるものが考古学者=研究者の探求の目的物であり創作物であって、原因と結果の転倒の産物であることはいうまでもない。それが間違いだともいえないまでも、しかし、「石ころ」がつねに「土器」“でなければならない”わけではない。「石ころ」はついに「石ころ」であるという可能性(事実石ころでもあろう)もまた残るのである。

 「警察的〈知〉」と「探偵的〈知〉」はいわば親子である。これまでは、あるいは現在の“一般”常識は親の論理を支持している。だが、子(放蕩息子)の論理がそれに変わりつつあるところまできているようである。

《注》
(1) これは、ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(望月哲男・鈴木淳一 訳 ちくま学芸文庫 1995・3)を参考にしている。ここでは直接ドストエフスキーに関係はないのだが、ドストエフスキー小説に流れる西欧の散文ジャンルの伝統について、バフチンが論述いるところを少しだけ紹介しておく。ミハイル・バフチンは、小説ジャンルの源流は叙事詩・弁論術・カーニバル文学の三つであるとと述べている。そして、ドストエフスキーの小説の源流は、このうちの後二者すなわち《ソクラテスの対話》と《メニッポスの風刺》である。しかもこの二者は全く別々のものではなく、《ソクラテスの対話》は《メニッポスの風刺》を基盤にしているのであり、いわゆる《ソクラテスのアイロニー》は、カーニバルの笑いがその底流にあることを表している。
(2) ソール・フリードランダー編『アウシュビッツと表象の限界』(上村忠男・小沢弘明・岩崎稔 訳 未來社 1994・4)
(3) 糸圭(すが)秀実「メディアと『政治』」 (『「超」言葉狩り論争』情況出版 1995・10)

[その他の参考文献]
・糸圭(すが)秀実『探偵のクリティック』(思潮社 1988.7)
・マーク・テイラー『さまよう ポスト・モダンの非/神学』(井筒豊子訳 岩波書店 1991・3)

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