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  1994(平成6)年度  編集長/加藤達彦

  第5号 [1995.01]





  ある木曜日(近代小研の日)の出来事 / 山崎義光(D1)


 その日私は宮城県美術館の喫茶に座って恩地孝四郎の図録を見ていたことだ。展示自体はそれより3週間程前(?)に加藤君とともに見に行ったのだが、そのときには買わずにしまったその図録を買いに行ったわけなのだ。

 私はその図録に載った論文を読み、また画を眺め、そうしてしばらくして後、ふと窓ガラスを通して中庭に目を移したことだ。それとともに椅子に背をつけて伸びをしながら視線を上ると、ついそこの柱に電球がひかっている。否、正確には窓ガラスに部屋の内部の電球が映って、それがガラスの向こう側の柱と重なり合っていたわけだ。別に珍しくもないよくある現象には違いない。しかし、それが電球であったことが私の連想を誘った。まず、思い出したのがマグリットの「月」の絵のことだった。その絵は、《夜空の月が木の葉の手前にある絵》だったが、その絵を見たときは、遠近法をもじった騙し絵風の絵だなあと思って見ていたに過ぎなかったのだが、この時その絵が、いかにも「現実」的なものとも解せることに気づいたのだ。しかし、そこまでもつまらぬ連想にすぎない。目を落としてまた図録の方を見始めると、恩地の版画に(これは展示を見ているときから気になっていたことなのだが)目を象った(しかも目だけが)ものの多い事であった。そのうちふと、それが覗きをしている目のように思えてきたのだ。そう思うとさらにこんどは、絵の中の目が私を見ているようにも思われてきた。

 恩地孝四郎は、萩原朔太郎の『月に吠える』や室生犀星の『性に眼覚める頃』の単行本の装丁もしたのだが、萩原朔太郎や室生犀星とともに雑誌「感情」に作品を出していた。「恩地の抽象画風の版画が、なぜ抒情・抒情詩と結び付くのか?」というのが、加藤君と私が初めて展示を見たときの共通の疑問であった。私は、感情というのはそもそも目で見たり、手で触ったりできないものだから、何物かと名指せるような図を象っては「感情」の無形性に反するからではないか、といった意味のことを言ったのだった。

 さて、話を戻して、画中の目が私を見ているように感じたとき、「感情」と抽象画の結び付きのことを思い、またそれが覗きであることとを思い合わせた。覗きは好奇的な探偵のまなざしに通じる。そこに来て私は、はたとこの目が「《心境=真相》の探求」の目に思えてきたのだった。う〜む、ホントかなあ、と我ながら半信半疑ながらも、独り糸口を掴んだかなという気になったものだが、さらにページを繰ると、弦の張る余地のないほどに、ほとんど丸に近い三日月の象られた版画を見つけた。そこでまた、はたとそれが目に見えて来たものだ。かくして「目」は「月」であったのだ。(なんとこの二つの漢字の似ていることよ)。

 私はこの連想を心にとめつつ、美術館を後にし、大学へ向かったことだ。その日の小研は、八木君の発表の日だった。書籍によって、多田智満子『鏡のテオーリア』(ちくま学芸文庫)を何げなく買う。「鏡」をめぐるエッセイ集のようなものだが、「鏡」はそれ自体の性質はもとより、メタファーとしても考えてみる価値のあることに思っていたし、実際しばしば見かけるので、この本は気になっていたのだが、ちょうど『現代思想』で「表層のエロス」という特集もあり、つい読んでみる気になったことだった。そして目次をみると、なんと、そこに、「眼の月」とあるではないかっっ! ふ、ふ〜む、何を書いているのだろうと思いながら、小研に出たことだ。その日も活発な論議のあったあと、飯を食って、家に帰ったことだ。その日の月は三日月であったが、それが私の意識の反映による幻覚なのだか、実際のことなのだか、月と目と鏡にいかれた私の脳髄には、もはや判別不可能になっていたことだ。

 家に帰ると早速『鏡のテオーリア』を読んでみたことだ。このエッセイは短い読みきりで、ある夜新幹線の窓から外を見たら「山の中腹に、山に隠れることなしに、半月よりやせた位の月がかかっている」のを見て変に思った筆者が、もう一度見直したら、こんどは「その左向きの月のすぐ左に、顔をつき合わせるようにして、右向きの月が姿を現した」のだという。この後、実は、この月が、自分の目玉の窓に映ったものだったという落ちがくるのだが、私は昼の出来事を思い出しつつ、ふ〜む〜っ、とうなったことである。そうしてあらためて、この本の始めから読み始めた。鏡をめぐる言述を、詩人らしい逸脱的考察のうちに哲学・人類学等のテクストからたくさん引用していて楽しい読み物なのだが、次のように書かれているのに立ち合って、はたまた驚いたことであった。中近東の国々には眼玉を象ったペンダントなどを胸にぶら下げる風習があるそうだが、これは「外から見られる視害」を「見返す自分の側からの眼の力によって、もっとも効果的に減殺できる」と信じられていたからだ、というのである。眼は、日本では「まぐあひ(見合)」に通じるように、親和力として働くとともに、邪眼を見返す反発力としても働くのだ、と述べて、次のように続けるのである。

 眼はもとより感受し判別するための感覚器官なのだが、このように、親和力と反発力、すなわち引力と斥力とを有する一個の独立性をもった存在とも考えられる。そして、ありていに言えば、この考えは眼球そのものの形状からその裏付けを得ているのだ。すなわち、眼球は、眼窩にはめこまれ、まぶたに覆われてはいるものの、露出されれば地球や太陽と同じく球体であり、かつ、それらの天体と同じく引力と斥力とを有している。しかも、眼球もまた輝くものなのだ。
 太陽や月の光が天体のまなざしであるとすれば、私たちの視線は眼光として感受される。素朴な―ということは根源的なというこだが―感性の代数学においては、この両者は交換可能であり、同一の記号によって指示されるのである。視線=陽光、そしてもっとも基本的に眼球=太陽。私たちは間もなく太陽=鏡という等式に出あうであろうが、太陽と鏡とを直線で結ぶ前に、驚きという語を媒介にしてまず眼と鏡とを結び合わせておく方がよいであろう。

 ユリイカっ! と思わず私は感嘆の声を上げそうになるほど驚き、また感心した。しかも、この私の驚きを察するかのごとく、「驚き」を媒介に「眼と鏡とを結びあわせておく」というのだから、私はほとんどこの詩人に手玉に取られているといってもよいだろう。これをそも私の脳髄を犯す「目ん玉地獄」とでも呼ぼうか。

 以上が、私がこうしてこの一文を書き始めた顛末である。それではさて、「見ることは驚くこと」の章を読んで見ることにしようか。ちなみに「恩地孝四郎 色と形の詩人」展は、十二月二十五日(日)までである。まさかに、まだ見に行っていない非国文の人はいないことであろうが、伸宏先生のレポートを書くためにも、まだの人は即刻行くようお勧めしておく。

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