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  1994(平成6)年度  編集長/加藤達彦

  第1号 [1994.05]





  「私小説」的文芸観の体制 / 山崎義光(D1)


 概説と第1回発表における私の課題は、「私小説」という言葉、概念をどう捉えるかという問題であった。なぜなら、「私小説」とは、作家の創作態度をいうもの、読者によって見いだされる形式的な語りの構造をいうもの、のどちらでもあって、またどちらかだけではない、テクスト内的には把握し得ない、ある暗黙の小説観を前提にしてはじめて可能になる概念だからである。

 まず大正13年の、中村武羅夫と久米正雄の二つのエッセイから、作家はその身辺をのみ書くべきか否かという対立点と、作品は作者自身の人生観を現すという共通了解が指摘できる。ここで、「私小説」という概念は、むしろ「心境小説」という呼び名において定着されたこと、そしてこの「心境」なる言葉が、作者の〈真実〉であり、〈深い〉「心境」を指し示していることに注意すべきである。この大正末は、「文芸戦線」(大13.6)、「文芸時代」(大13.10)の発刊にみるマルクス主義、新感覚派、また江戸川乱歩に始まる推理小説、また円本ブームに象徴的な読者層の拡大などの新しい動向が起こった時期でもあった。このコンテクストの中におくとき、「私小説」概念の登場は従来の暗黙の了解、すなわちある小説観が露頭したものとみることができよう。このことは武田信明が述べる次の言葉に要約できよう。

 大正末期から昭和初頭にかけて一連の私小説論争がくりひろげられ、それは昭和十年に書かれた二つのエッセイ、小林秀雄「私小説論」と横光利一「純粋小説論」でピークを迎える。その過程において、「私小説」という用語が定着し、さらにその起源が文学史を遡行して探し求められ、また私小説そのものの概念が細分化されてゆく。それは、巨視的に見れば、作家が「私」自身を文学的主題たりうると認識し、読者がそれを容認するということが、その是非も含めて問われた時代、換言すれば「私」というものが何よりもトピックであった時代ということができよう。
 (「二つの『鏡地獄』――乱歩と牧野信一における複数の『私』」/「群像」平4.6)

 「小説はその本性からして規範的ではない。それは可塑性そのものである。それは永遠に求める、自分自身を探求する、すべての自分の出来上がった形式を再検討するジャンルである」とバフチンがいうように、小説というものが、何ものかであるということのできない鵺的存在であるとすれば、大正末期から昭和初期にかけて持ち上がった「私小説」をめぐる論議、小説観をめぐる「問題」の露頭、そしてその過程で作り出され、存在化され、浸透した一つの小説観とその体制は、小説テクストを「私」=作家の真実を消失点として読み込もうとする体制である。それがここで「私小説」的文芸観の体制と呼んだものだった。

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