[No.0006] 2001.06/07
山本文緒「プラナリア」
(『プラナリア』文藝春秋 2000.10)
山崎義光
「次に生まれてくる時はプラナリアに」。生きていること自体が面倒くさく、自殺も面倒くさく、つまりは「死ねない」こと自体に倦み疲れつつ、かといって、ガンで再発して死ぬのは怖くていやな「私」。
乳ガンを切っても死なない「私」は、切っても死なないプラナリアそのものであって、ちがいといえば、世の「濁った」(=他者のおしゃべり)「流れ」(=医療制度に代表される社会)のなかで生きている「私」にとって、清流にすんむというプラナリアの境遇がうらやましいという点で、微妙に理想的自我が提示される。「私」が「死ねない」ことと、プラナリアの「死なない」ことの差は、「死ねないこと」を肯定的に受け入れたい自己肯定の願望として読める。
プラナリアが男根の形に比されていることもこうした読みを支持するだろう。「プラナリア」という想像的な対象が、乳ガン以外にアイデンティティの根拠を持たない「私」の理想自我であると読めるからである。
しかも、それは不可能なところに空想された理想ではない。ガンになっても優しく接してくれる恋人や、心配してくれる両親がいる点で、手の届くところにあるのだということが示されている。
そして、"濁流"に住む「私」のまわりに次々と現れ、「私」が嫌悪するおば(あ)ちゃんとの関係は両義的である。
デパートで「出口はどこですか」と聞くおばあちゃんに袖をつかまれて吐き気におそわれる「私」自身が、結末で、そのおばあちゃんの身振りを反復し、「出口はどっちですか?」と聞いていることは、実は「私」自身が、忌み嫌っている当のおば(あ)ちゃんとなんら変わりのない存在にすぎず、己自身に吐き気をもよおしていたのだということを示している。
この小説は、「私」が嫌悪とともに語っている当の対象に、フォルマリスティックな形象化の次元で、「私」が近似していることが示される自己言及性をもった、(つまり、反省的な!)「「私」って何者?」「自分を自分で受け入れたい!」小説だということができる。
今、ありがちな「私」の位相を、一見意外そうな隠喩をもちいてまとめた点で、それなりの水準で処理した小説だといえるか。
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