No.006〜010

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[No.010] 2004.01/12 [色紙のつぶやき] 国松路
[No.009] 2003.07/18 [かたつむりのカメラ目線] 国松路
[No.008] 2003.01/23 [ベトナム料理が旨いのは…] 土屋 忍
[No.007] 2002.06/30 [ケータイの電磁波問題] 山崎義光
[No.006] 2002.01/23 [小さな知識人について] 山崎義光

[No.010]  2004.01/12

色紙のつぶやき

国松路

 どこかの酒場でのお話です。 つまり…場所は覚えていないか or 飲んでた時点ですでに判らなくなっていた… ということでありましょうか(笑)。

 * * *

私はトイレに立ちました。

そのお店の洗面所にはカガミはなく…ただ一枚の【色紙】が貼ってあり…
そこには、筆でこう…こう書いてあったのでございます。

  馬鹿にするな 馬鹿にするな

  思いっきり笑う【権利】を

  馬鹿にするな
  声張りあげ泣く【権利】を

  馬鹿にするな
  飲んで肩たたき合う【権利】を

  人間なんだ 人間なんだ

   人間なんだ

 * * *

私は席に戻りました。
偶然そのときは私と、もう独りおとなしそうなおじさんしか、お店にはいませんでしたが…

【常連さん】が集まったときのとても【尊い】喧噪が聞こえた、ような気持ちになって…冷や酒をもう一杯頼んだのでございます…

誰か有名な方の【唄】なのでしょうか?…
不勉強な【アル中】には、いまだにトンと調べがつきません。
でも、そんな事はどうでもよいのです。

ちょっと昔…夏になりかけの、半端に暑い夜の思いで…なのでございます。

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[No.009]  2003.07/18

かたつむりのカメラ目線

国松路

【アルコールによる酩酊】…

 これをお猿さん達が、『日常会話』の発生する以前におぼえていたら…どうなったでありましょうか?

 おそらく、私のようなアル中にばかり進化した『万物の霊長』が支配(出来たかなぁ…)する星になったでありましょう。

 20世紀末までに『24時間お酒を売っているコンビニ』が出来るほど、文明は急速には発達しなかった、と思われます…

 ●

しかし、おそらく言葉が使われだした当初、人類の祖先は相手に対して言いたい放題、罵詈雑言・好悪をためらわずに即座に口にだしていたでありましょう。

 戦意を表明する際に歯をむいたり、またメス猿に愛を告白する際にマウンティングなどをしなくてもよくなって、気の短いオス猿さん達は、さぞかし手間がはぶけたのではないのか?と思うのです。

 ●

思いまするに、酒飲みになってしまうと、『日常会話』の方法論?的なものが七面倒になってしまうようであります。

 しかし、その昔、『会話』によって猿どもは飛躍的に意志の疎通が頻繁になって、遠からず文明が産声を挙げたのだ、と言っている人もいたはずです。(確か…)

 ●

で、なんとなく『だからこそ世界中が修羅場になってしまった』のだ、と思うのであります。言葉というモノは決して一人だけに向けられるモノではないのですから…。(【舌禍】という奴であります。)

 大衆を扇動して暴動を起こす事を生業としている人もいます。

 いろんな女性に同時に『愛』を告白しては、闇から闇へ売り飛ばす職業の方もいらっしゃいます。

(【文明】と同時に【売春・女衒】【戦争】も発生した…という人もいました…)

 ●

 目の前に『子猫』の写真のテレフォンカードがございます。人からもらった物ですが、あまりに可愛らしいので0度になっても捨てられません。

人間にしても動物にしても(まあ、人間も動物ではありますが)、赤ん坊はシルエット的に四肢が短かいことは共通していると思います。

 その短い手足で中空をつかみながら、邪気のない真丸い目で真正面からジッと見つめられると、知らずにニコニコしてしまっている自分がいます。 そいうった『根拠のない、しかし抗いがたい感情』こそが、人間の本能なのではないのでしょうか?

 ●

 つまり、私は『ただ飲みたい』のであります。
 酔っていたいのであります。

 わが奥さま、後生だからあんまり目くじらを立てないでいただきたいのでございます。

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[No.008]  2003.01/23

ベトナム料理が旨いのは…

土屋 忍

 年末年始に台湾とベトナムへ出かけた。いろいろあったが、ここではひとつだけ簡単な報告をしておきたい。それは、なぜベトナム料理は旨いのか、についてである。

 東南アジアの飯は旨い。屋台の飯は格別である。もともとそう確信して生きてきた。なぜ旨いのか。それは、豊富な食材が目に見え、仕入れや調理の過程が透明であり、化学調味料の臭いや電子レンジ音がしないからである。そして何より、そこに生きる人たちが自分で食べたいと思うものを料理してくれるから旨いのである。

 今回の旅では、屋台や市場で好物を探り当てるような機会はなかったが、ベトナム各地のレストランで連日高級料理を食すという身の程を過ぎた饗応を堪能した。台北からハノイに入ったその日の昼以来、予想外の御馳走攻めに遭った私たち一行は、次から次と繰り出される料理の品々に舌なめずりをし、嬉々として箸をつけた。しかし、案内されたどの店の料理も、明らかに胃袋の許容総量をオーバーしていた。戸惑い、焦った私も、最年少男子として奮闘した(はずだ)。だが、皿の上のゴイ・クォン(生春巻き)も、バイン・ボッ・ロック(海老等を半透明の外皮に包んだもの)も、椰子の殻に入ったスープも、ココナツライスも、尽く余すことになった。

 観光客の食べ残しを活用する仕組をベトナム人ガイドのユキ(Tuyet)さんから教わったのは、旅の後半であった。まず料理人や店員の食事となり、残りは水牛や黒豚、地鶏の食事になる、さらに牛豚鶏は…という食のサイクルを知り、少しだけ救われた心地がしたのは私だけではないだろう。

 考えてみれば、大量の残飯を放出しながらそれを忌み嫌うという習慣は、近代都市の悪弊である。それは、正体不明のものに装飾加工を施し「食品」として薄利多売する精神とも結びつく。ある製パン会社の社長は、自社のパンなど食べないという。大手ハンバーガー会社の社長も同様である。

 この話題には、なお多くの問題が残る。だが、これだけははっきりしている。すなわちベトナムでは、高級レストランにおいても、料理に携わる者たちが食べたい(やがて食べる)料理を堂々と料理する。だからベトナムの飯は旨いのである。

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[No.007]  2002.06/30

ケータイの電磁波問題

山崎義光

 電車やバスに乗っていると、かならず「ケータイ電話の使用はご遠慮ください」という車内放送が流れる。これは理由がはっきりせず、不思議なことに思える。

 理由として、心臓ペースメーカーと携帯電話との電磁波による干渉可能性の問題が指摘されたりする。「ケータイ電話の使用」というのは、もちろんメールの送受信でも電磁波が発生するのだから、それも含む。しかしながら、干渉可能性については、ある実験結果では「心臓ペースメーカーに電磁波干渉を起こしうるが、通常の位置での使用をする限りでは健康上のリスクは生じなかった」という報告(札幌厚生病院循環器科)もある。これだけでは確かなことは言えないとしても、どれほどの強い可能性であるかは、よくわかっていないようだ。死亡事故にまで発展したということまでは、とりあえずないようだ。よくわからないから十分な警戒が必要ということなのだろうか。

 心臓のペースメーカーにばかりでなく、そもそも生体にとって悪いかもしれないと指摘されたりもする。それは、なおさらよくわかっていないようだ。しかも、電磁波を発生させるのはケータイだけではないし、さすがに今のところ(たばこの場合のように)生体に影響があるのでという理由ではないだろう。

 ただ、可能性が低いという報告についても、どういう立場にたっての報告であるかについては、注意が必要だろう。今やケータイ電話の経済効果はかなりのものであるはずで、だとすればむやみに抑制するわけにはいかないのであるから、不利な喧伝はなされない可能性があるからである。水俣病のときには、日本の基幹産業であった化学工場の社会経済的な役割の比重が下がるまで、公認されることがなかったことを思い出してもいい。

 その他の理由としては、車内マナーが指摘されたりする。あるビールのCMでは、新幹線の車内で大きな声で通話する中年男を、少々気の弱い中年男が正義感を行動にまで奮発して連れ出す映像を流している。なるほど、放任しておいて、電車内でみんながケータイで話し始めたら、その騒ぎは大変なものになるかもしれない。だが、車内では黙っていなければならないものではないのであるから、ケータイの会話だけが指弾されなければならない理由にはならないだろう。ましてや、黙ってメールの送受信していることが迷惑になるものでもあるまい。

 マナーが問題であるなら、マナーの普及に努めるべきであって、禁止する理由にはならない。

 そういうわけで、私が気になるのは、一方で排除の理由がそれほど強いものでも、明確にされているわけでもないにもかかわらず、かなりうるさく使用禁止を訴えていることのアンバランスである。

 私が気に入らないのは、この禁止がまるで"中学校の学則"のようなものに思えるふしがあるからである。

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[No.006]  2002.01/23

小さな知識人について

山崎義光

 セールスという仕事は、興味深い。実に、現代的な仕事だと直感的に感じることがある。
 セールスの語りによって、不安をはらんだ浮遊感を感じたことはないだろうか?
 なにより、語り=騙りの能力を要する。
 電話であったり、訪問であったり、あるいは店にやってきたときであっても同じことだが、相手の欲望を刺激し、喚起して、話の地平をつくることからはじまる。何とはなしに、興味をひき、話のきっかけをつかむこと。そのためには、実にずうずうしいまでに、あるいはなれなれしく接近してくる。

 商品の知識が皆無な客に対して、その知識を授けながら客の欲望を喚起し、それがあることの御利益を説いて生活のヴィジョンを与え、善導する!

 手短かに具体的なヴィジョンを示しながら、相手が興味を示しはじめたら、「買ったら」どんなによいかという話の地平において話をすすめていくことになる。
 まず、「たら」の虚構の地平を相手との間に生み出すこと。
 そしてこの虚構の地平において示すヴィジョンに相手が魅せられ、それが覚めないうちに契約にもっていく。
 どんなセールスでも「即決」は常套手段である。場合によっては、「即決」したらサービスしますなどと言っている場合もある。

 もちろん、買い手の方に必要性や欲求があるから買う気にもなるわけだし、「商品そのもののよさ」に依存している。
 しかし、それは、客の視点からみれば、セールスを証明するものではあっても、受けているセールスの前提ではないのである。実演販売なるものもあるが、結局は他人にとってどうであれ、自分の生活のなかで証明されてはじめて、その意義(よさ)がわかるというものだ。
 そう思えば、セールスは、その語りから醸成される話の筋道と欲望を刺激するヴィジョンで魅せることに、多くを依存している。

 今や、医療だって「医療サービス」であると言われているし、教育も「教育サービス」だと言われる。
 実際、医療におけるインフォームド・コンセントだの、学校の体験入学だのといった活動がさかんになっている。
 これらが「サービス」と呼ばれることには、医療や教育が、受け手の視点から捉えられるべきものだとの含意があり、受け手の意思をこちらに向けて、自らそれを享受しようとの意思を獲得することにおいて成立するものだとの含意がある。

 「医療サービス」「教育サービス」も、それらの従事者たちが、媒介者としての役割も担いつつ、相手に、知識とそれを具体化した「もの・こと」を提供するということであるからに違いない。

 セールスというのは、媒介である。これが、現代において枢要な意義をになうのは、天と地上とを媒介するのが聖職者であったとすれば、セールスマンが、世俗化した聖職者の地位を占めているからだろう。売り手の地平と買い手の地平とを媒介する堕落した聖職者。
 言うまでもなく、これは資本主義が招来した<世界>の構造だ。

 自社の製品を売り込むセールスであっても、売り手の会社と買い手とを媒介していると言いうるし、広告会社が急成長した20世紀を回顧して明らかだが、業態として売り手とも買い手も異なる第三者として仕事をするセールス専門会社が独立している。

 聖職者や絶対的統治者が、社会構造の内部において、その枢要な役割から退いたとき、前景化してきたのが「知識人」と呼ばれる層だった。
 セールスマンというのは、世俗化した「知識人」だといえるのではないか。堕落した知識の語りべ、柔軟な媒介者、あるいは小さな知識人としてのセールスマン。

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投稿雑文誌 うずまき