現代小説のうず

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No.0007 2001.07/09 [田口ランディ『モザイク』] 森岡卓司
No.0006 2001.06/07 [山本文緒「プラナリア」] 山崎義光


[No.0007] 2001.07/09

田口ランディ『モザイク』
(2001・4 幻冬舎)

森岡卓司

 「携帯電話の電磁波はどれほど有害なのか?」と考えたことはないだろうか。無論、それは実証的なレヴェルの話ではない。われわれを取り巻くディスクールの次元に於て、である。例えば、ペースメーカー他の医療機器に誤作動をもたらす危険がある、ということは知っているような気もするが、ではそれを知りながら電話会社は何ら対策を講じぬまま今に至るのであろうか?また、新幹線では「マナーボタン」を使うように言われ、バスでは電源を切るように言われるのはどうしてか?それは、マナーの問題なのかそれとも科学的な問題なのか?恐らく、よく調べるならば議論はどこかで決着を見るに違いない。しかしながら、問題はそれを「誰もよく知らない(或いは共有しない)まま、幾つもの言説が流布される」という点にある。

 それは恐らく、正しく「幻想」と呼ぶべき何かであり、実証的な決着とはまた別の次元に於て問題化されるべき言説である。そして、帯文にも採り上げられる『モザイク』に於ける都市の「電子レンジ化」とは、そのような言説の一つを奇妙なリアリティをともなって形象化するものだ。

 『アンテナ』『コンセント』に続く第三作である本書については、まずそのタイトルの持つ隠喩的意味とテクストの持つ構造との照応に目を惹かれる。一対多、或いは一対一という、中心の一極を持つ関係性を喩すタイトルを持った前作とは違い、本書においてテーマ化されるのは、中心を持たぬ関係の全体性としての〈モザイク〉という比喩であり、その危うさと可能性との両面である。こう言うと、チャップリン『モダン・タイムス』に典型的であるような〈歯車〉の喩をすぐに想起される向きもあろうが、たぶんそれはある意味に於て正しい。単純には、「救世主救済委員会」といった高みからは見通されてしまうような世界の中にいる一つの〈モザイク〉のピースが、まさにそのピース(〈歯車〉)の一つであることに於て実存を恢復する、という物語が、この小説の主たるプロット構成をなす。

 主人公ミミの、殆ど漫画的とも言ってよい英雄的造形、或いは時代錯誤的なほどの「委員会」及びノエルのそれ、等は、実は〈モザイク〉的な世界の全体性を構築するためにこそ要請されるのであろう。その意味で、この小説は確信犯的なフェアリー・テイルであり、創世の神話である(思想・哲学に比してアニメ等が重要視されることも、一つにはこのような点にも起因するか)。また、渋谷の廃河といった可視的な現実の裏側への志向性も、乱雑である現実をある意味では意味づけ、整序するものである(渋谷の男根と女陰といった発想にもそれは端的に顕れていよう)。このような観点からは、例えば「オウム事件」前後に屡々見られたような「向こうの世界」という文学上のモティーフと、この小説のそれとを比較することもまた有益であるかもしれない。

 そして、われわれが無意識のうちに捕らわれる(或いは捕らわれていないと思っている)幻想的なる言説が、主体にとって主要なリアリティとして存在するということを示し、少なくともその世界の整序を、〈モザイク〉という多面的且つ非中心的な関係性の喩によって形象化した、という点に於て、この小説には一定の評価が与えられるべきであろう。

 しかしながら、〈モザイク〉のピースは、予め適合する相手が定められている。世界に連なるために適切な場所と相手とは「会った瞬間にすぐそのことがわか」る、即ち実存に対してア・プリオリに存在するのである。そして、そのようなロマンティシズムを肯うことに躊躇いを覚えるのは、何も私だけではないはずだ。例えば、この小説には携帯電話を持たない(かもしれない)人物が幾人か登場するが、彼・彼女らは一体どのような世界にいるのだろうか。「バスに乗るとき位は電源を切れ」と主張する携帯嫌悪者たちは、携帯を片時も離さないわれわれとは別の「世界」にいるのであろうか?ミミは、確かに全ての話を「聞く」存在である。しかし、彼女は言葉を意味から剥離させる存在でもある。彼・彼女らのピースとミミのピースとは、どのように繋がり得るのだろうか。

 物語を生き終えた彼女は、果たして「祈る」青年の裏側を見通すだけの存在に留まっているだろうか、それとも「めえめえ」としか聞こえなかった彼の言葉と、まっとうに軋みあう存在へと変貌し得たのだろうか?前者のようなシニシズムではなく、軋みをこそ肯定し得るような可能性こそ、現代にあって思考・試行の対象とされているもののようにも思われるのだが。

 このようなミミの〈世界〉が持つ両義的な危うさは、彼女自身へと向けられた探求が持つ奇妙さ、即ち、それがオイディプス的な探偵小説の類型の範疇から決して出るものではないこと、しかし同時に、ミミ自身が気付くより先に祖父によって〈父〉の代補(トラウマの隠蔽ならぬ超克)が既に行われていること、といった点にも認められるのではないか。非中心的な全体性は、果たしてどのように全体で有り得るのか?このテクストが持ちうる問の一つは、例えばこういう点にもあるのではないか?

 かつて、河野多恵子が(1980年代の)現代小説に用いられる用語に見られる「内向き」の頽廃を指摘し、高橋源一郎がそれに「内部化の徹底から外部への超出」というテーゼで応戦した、という一幕があった。更に言えば、〈世界〉の分裂と恢復というテーマは、戦後社会を描いてきた文学にとって殆ど一貫したテーマの一つでもある。優れたフィールドワーカーでもある田口ランディは果たして、このような議論には関心を示してくれるであろうか?

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[No.0006] 2001.06/07

山本文緒「プラナリア」
(『プラナリア』文藝春秋 2000.10)

山崎義光

 「次に生まれてくる時はプラナリアに」。生きていること自体が面倒くさく、自殺も面倒くさく、つまりは「死ねない」こと自体に倦み疲れつつ、かといって、ガンで再発して死ぬのは怖くていやな「私」。
 乳ガンを切っても死なない「私」は、切っても死なないプラナリアそのものであって、ちがいといえば、世の「濁った」(=他者のおしゃべり)「流れ」(=医療制度に代表される社会)のなかで生きている「私」にとって、清流にすんむというプラナリアの境遇がうらやましいという点で、微妙に理想的自我が提示される。「私」が「死ねない」ことと、プラナリアの「死なない」ことの差は、「死ねないこと」を肯定的に受け入れたい自己肯定の願望として読める。
 プラナリアが男根の形に比されていることもこうした読みを支持するだろう。「プラナリア」という想像的な対象が、乳ガン以外にアイデンティティの根拠を持たない「私」の理想自我であると読めるからである。

 しかも、それは不可能なところに空想された理想ではない。ガンになっても優しく接してくれる恋人や、心配してくれる両親がいる点で、手の届くところにあるのだということが示されている。

 そして、"濁流"に住む「私」のまわりに次々と現れ、「私」が嫌悪するおば(あ)ちゃんとの関係は両義的である。

 デパートで「出口はどこですか」と聞くおばあちゃんに袖をつかまれて吐き気におそわれる「私」自身が、結末で、そのおばあちゃんの身振りを反復し、「出口はどっちですか?」と聞いていることは、実は「私」自身が、忌み嫌っている当のおば(あ)ちゃんとなんら変わりのない存在にすぎず、己自身に吐き気をもよおしていたのだということを示している。

 この小説は、「私」が嫌悪とともに語っている当の対象に、フォルマリスティックな形象化の次元で、「私」が近似していることが示される自己言及性をもった、(つまり、反省的な!)「「私」って何者?」「自分を自分で受け入れたい!」小説だということができる。

 今、ありがちな「私」の位相を、一見意外そうな隠喩をもちいてまとめた点で、それなりの水準で処理した小説だといえるか。

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