現在、名古屋シネマティークで「クレージー・イングリッシュ」が公開されてい
る。すでに「週刊朝日」誌上での舟橋洋一氏の紹介(2000.4.21、6・16
号)で知られるこの映画は李陽氏の「瘋狂英語」と呼ばれる一種の<英語理論布教活
動>をひたすら追いかけたドキュメンタリーである。
紅野謙介氏によく似た風貌の李陽氏(しかし歳は筆者と同じ1969年生まれ)が
まるで小林克也みたいな声と発音で仕種を入れながら発音記号を絶叫する様はなかな
かの迫力であり、これでウルムチ、上海、紫禁城、清華大学などを駆け巡るバイタリ
ティとほとんど全体主義のネガのような一糸乱れぬ授業風景は見るものを圧倒する。
その一方で、「1937年の日本の虐殺」の写真を小学生に見せることの意味を
「タイム」の記者のインタビューで答えるしたたかさ、万里
の長城で人民解放軍を相手に講義し、世界のマーケットをアメリカ、日本、ヨーロッ
パとみなし、金儲けのための英語を公言してはばからない政治的パフォーマンスは、
少し露骨で分かり易すぎる(あるライターは80年代の天安門以前の中国なら不可能
な行動と映像だと書いていた)とはいえ、かなりのものだといえる。
彼自身、朱鎔基やインテルの社長の名を映画の中で言及しているのはまさに示唆的
で、中国の市場開放ライン(それに豪腕の政治的スポークスマンぶり)とまさに対応
しているのではないだろうか。緒方康は「中国の特色をもったグローバリズム」
(『現在思想』2000.6)のなかで朱鎔基のメディア戦略がF.ジェイムソンの影
響下のポストモダン派知識人を飲み込んでしまった過程を論じているが、実際、李陽
氏は「中国の特色をもったグローバリズム」そのものだろう。
ただ、彼が若い頃は電話で口も聞けない少年だったと独白し、「恥の多い自信をも
てない人生だった」などというところはほとんど太宰治を連想させる。しかも才能の
ない人間の苦労・成功物語こそが大衆に受けるのだと自分のスタッフに対してマーケ
ティング戦略としてはっきりしゃべっているところも「道化の」計算高さを物語る。
映画のパンフレットは中尊寺ゆつ子と大川興業の大川豊総裁が李陽氏と対談してい
る奇怪なものである。妙な話だが、例の右翼政務次官を解任するきっかけを作ったの
も大川興業であり、大川興業はある意味、日本でもっとも「カルチュアル・スタ
ディーズ」している集団ではないだろうか(江頭2:50は中国でクレージーイング
リッシュのマネをやって馬鹿受けだったそうである)。
舟橋氏の『あえて英語公用語論』(文春新書)での、アジアの経済界や法曹界との
対話をにらんだ、そして「英語帝国主義論」(フィリプソン、及び『言語帝国主語と
は何か』藤原書店を参照)まで射程に収めた生臭さすら漂わせる「現場性」と、この
大川興業=李陽の野蛮な迫力は、風俗の実証とシニフィアンの相対主義に過ぎない
「文化研究」を蹴散らすに充分なものである。
ただ、「中国の民族地理」(松村嘉久)「周辺からの中国」(毛利和子)といった
問題、そして「自国の文化を外国語で代表することは知的裏切りである」(稲賀繁
美)といった「外交官的ダブルバインド」「第三世界の前衛」のジレンマなどを、こ
の手の「グローバリズム」は置き去りにしているともいえる。
裏切りとしての代行=表象は「実践(理性批判)」と切り離せないが、反面、実用
と資本、そして道化的イノセントとの結合(浅田彰の言うスーパー・フラット・アイ
ロニー)に回収されてはならぬ倫理性をもち、なおかつそれは大文字の不可能な
「法」(ベルナール・バース)へと還元されてはならない。つ。このジレンマをどう
解決するかは重い課題だろう。
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