古今東西映画評


ビデオで観るもよし、映画館で観るもよし。
ともあれ、映画について語ります。あるいは、映画から語ります。

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No.記事日付書いた人 題   名 
002 NEW!2001.12/03森岡卓司《リリィ・シュシュのすべて》
0012000.10/04柳瀬善治クレージー・イングリッシュ


002(2001.12/03)  「《リリィ・シュシュのすべて》」

(監督 岩井俊二 2001 日本)

森岡卓司

 「14才のすべて」とのタイトル案もあったらしいこの映画、監督インタビューに よれば、「14才の生活のすべてを描き、これほどに生きている人間に対して大人が してやれることなど何もない、ということを示」すもの。それは、エンディング、殺 人まで犯した主人公ユウイチが若い女性の教師に面談され、「何か悩み事でもある ?」と聞かれて、即座に「ないです」と答えるシーンなどに露わだろう。すべてを解 決し、或いは解決できないことを知ったユウイチには、「大人」に話すべき「悩み」 など、確かに「ない」。しかし、ということは「14才」が既に「大人」になった物 語、一種の教養物語、とどこが違うのか?先のバスジャック事件、「売り」、「イジ メ」など、様々の〈青春〉的小道具を用いつつ、結局の所、「14才」を「14才」 そのものとして描くことなどできない、というテーゼが最も明瞭に示された映画、と いうべきではないだろうか。そういうことであれば、ホシノが豹変するきっかけとし て、殆ど田口ランディ的に使われる西表島での「魂」の挿話についても、積極的なリ アリティの拒否として、かろうじて納得してもよい。

 この映画にも、ハンディカメラによるぶれの映像(少年たちと怪しげな旅人とのあ いだに発生するその撮影主体を巡る争いは、少年たちがその旅の体験の主人公性を確 保できるか否かを巡る危うさを示すエピソードだろう)、印象的な色彩処理、音楽の リリックな使用(因みに、観覧した映画館の音響はかなり!!で、左右に振っている のがかろうじてわかる程度)、岩井俊二熟練の技はふんだんに用いられ、あざとい位 の「文字」の使い方もまた健在。今回は、全てネット掲示板の書き込み、という設定 になっている。それらの文字について、よくあるローマ字ではなく特殊フォント(絵 ・記号)からの日本語変換によって打ち込まれるという表示が、そのキーをたたく効 果音と共に用いられ、ウェブサイト上の言葉が持つ微妙な位相、その浮遊する身体性 が巧妙に提示される。

 タイトルにも用いられるリリィ・シュシュは、幾度かそのPVと歌(歌詞字幕な し)とが流されるだけで、結局その放つメッセージ(〈エーテル〉をキーコンセプト とした、かなりのメッセージ性を持ったアーティストとして設定されているのだが) は、アーティスト側から直截に提示されるのではなく、一貫して掲示板に集うファン の言葉によって示されることになる。また、ユウイチが遂にホシノを刺殺するに至る 契機をなすのはリリィ・シュシュのコンサートへの入場を阻まれたことであり、また その刺殺の方法も「リリィがいる!」との虚言によって扇動した混乱に乗じ、そのリ リィの姿を探すホシノの背後に廻ってナイフを一突き、というものであり、要するに 彼女はこの「14才」の世界における超越的主体である。さあ、「リリィ」の名を 「天皇」に置き換えてみれば、あらま、これ…。

 まあそう単純にばかりは行くまいが、少なくともこの映画が、主体確立(或いはそ の挫折)を巡る一種の古くさくもおなじみの〈青春〉ドラマを反復していることは確 かであろう。逆に言えば、その相似的な構造に、(映像的にも脚本的にも)如何なる ズレが持ち込まれているか、というあたりが、この映画の見所、と言えそうだろう か。因みに、〈エーテル〉とは、〈癒し〉を司る何ものかとされるが、果たしてこれ はずれているのかいないのか。「天皇」を巡るいかにも現代的な意匠のようにも思え る一方、実はきわめて正鵠を射た解釈であるようにも見える。

 さて、如何にも「解釈待ち」のこの映画の挑発に、上手く乗れただろうか?因み に、喧伝されていた「14才」の「暴力性(力関係)」を巡る描写については、全く 衝撃も受けず、挑発もされなかった。特に、女の子の造形は如何にも「ベタ」過ぎま せんかね?


 
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001(2000.10/04)  「クレージー・イングリッシュ」

(監督 張元 1999 中国 90分)

柳瀬善治

 現在、名古屋シネマティークで「クレージー・イングリッシュ」が公開されてい る。すでに「週刊朝日」誌上での舟橋洋一氏の紹介(2000.4.21、6・16 号)で知られるこの映画は李陽氏の「瘋狂英語」と呼ばれる一種の<英語理論布教活 動>をひたすら追いかけたドキュメンタリーである。

 紅野謙介氏によく似た風貌の李陽氏(しかし歳は筆者と同じ1969年生まれ)が まるで小林克也みたいな声と発音で仕種を入れながら発音記号を絶叫する様はなかな かの迫力であり、これでウルムチ、上海、紫禁城、清華大学などを駆け巡るバイタリ ティとほとんど全体主義のネガのような一糸乱れぬ授業風景は見るものを圧倒する。

 その一方で、「1937年の日本の虐殺」の写真を小学生に見せることの意味を 「タイム」の記者のインタビューで答えるしたたかさ、万里 の長城で人民解放軍を相手に講義し、世界のマーケットをアメリカ、日本、ヨーロッ パとみなし、金儲けのための英語を公言してはばからない政治的パフォーマンスは、 少し露骨で分かり易すぎる(あるライターは80年代の天安門以前の中国なら不可能 な行動と映像だと書いていた)とはいえ、かなりのものだといえる。

 彼自身、朱鎔基やインテルの社長の名を映画の中で言及しているのはまさに示唆的 で、中国の市場開放ライン(それに豪腕の政治的スポークスマンぶり)とまさに対応 しているのではないだろうか。緒方康は「中国の特色をもったグローバリズム」 (『現在思想』2000.6)のなかで朱鎔基のメディア戦略がF.ジェイムソンの影 響下のポストモダン派知識人を飲み込んでしまった過程を論じているが、実際、李陽 氏は「中国の特色をもったグローバリズム」そのものだろう。

 ただ、彼が若い頃は電話で口も聞けない少年だったと独白し、「恥の多い自信をも てない人生だった」などというところはほとんど太宰治を連想させる。しかも才能の ない人間の苦労・成功物語こそが大衆に受けるのだと自分のスタッフに対してマーケ ティング戦略としてはっきりしゃべっているところも「道化の」計算高さを物語る。

 映画のパンフレットは中尊寺ゆつ子と大川興業の大川豊総裁が李陽氏と対談してい る奇怪なものである。妙な話だが、例の右翼政務次官を解任するきっかけを作ったの も大川興業であり、大川興業はある意味、日本でもっとも「カルチュアル・スタ ディーズ」している集団ではないだろうか(江頭2:50は中国でクレージーイング リッシュのマネをやって馬鹿受けだったそうである)。
 舟橋氏の『あえて英語公用語論』(文春新書)での、アジアの経済界や法曹界との 対話をにらんだ、そして「英語帝国主義論」(フィリプソン、及び『言語帝国主語と は何か』藤原書店を参照)まで射程に収めた生臭さすら漂わせる「現場性」と、この 大川興業=李陽の野蛮な迫力は、風俗の実証とシニフィアンの相対主義に過ぎない 「文化研究」を蹴散らすに充分なものである。

 ただ、「中国の民族地理」(松村嘉久)「周辺からの中国」(毛利和子)といった 問題、そして「自国の文化を外国語で代表することは知的裏切りである」(稲賀繁 美)といった「外交官的ダブルバインド」「第三世界の前衛」のジレンマなどを、こ の手の「グローバリズム」は置き去りにしているともいえる。

 裏切りとしての代行=表象は「実践(理性批判)」と切り離せないが、反面、実用 と資本、そして道化的イノセントとの結合(浅田彰の言うスーパー・フラット・アイ ロニー)に回収されてはならぬ倫理性をもち、なおかつそれは大文字の不可能な 「法」(ベルナール・バース)へと還元されてはならない。つ。このジレンマをどう 解決するかは重い課題だろう。


 
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投稿雑文誌 うずまき