読 書 録 No.10〜


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NewNo.016 2002.07/14 [白石顕二『ザンジバルの娘子軍(からゆきさん)』] 山崎義光
No.015 2001.08/04 [浅野智彦『自己への物語論的接近』] 山崎義光
No.014 2001.06/14 [原武史『「民都」大阪対「帝都」東京』] 山崎義光
No.013 2001.06/04 [吉田純『インターネット空間の社会学』] 山崎義光
No.012 2001.05/21 [村瀬学『なぜ大人になれないのか』] 山崎義光
No.011 2001.05/03 [奥泉光『鳥類学者のファンタジア』] 山崎義光
No.010 2001.03/13 [田口ランディ『コンセント』] 山崎義光
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[No.016] 2002.07/14

白石顕二

『ザンジバルの娘子軍(からゆきさん)
(現代教養文庫 1995.3)

山崎義光

 明治から昭和にかけて、アフリカのザンジバルに渡っていたからゆきさんの足跡をたどったノンフィクションである。
 1981年に冬樹社から出版され、その後大幅に加筆されて本文庫として刊行されている。つい先頃、この「現代教養文庫」の版元である社会思想社は、事業を停止することとなったため、今後入手が困難になる可能性があるのは残念である。
 この本は、この夏、韓国で開催される研究会で発表される内容とかかわる関係で手に取った。

 からゆきさんとは、海外にわたって娼婦としてはたらいた女性たちの呼び名であり、それがとくに昭和に入る頃から海外進出の先兵であるとの意をこめて「娘子軍(じょうしぐん)」とも呼ばれたようである(この呼び名そのものはそれ以前からあった)。実際、からゆきさんは、明治時代に、商社や国家機関に先立って海外へわたり外貨を日本へ送っており、その意味で文字通り海外進出の先兵であったといえる。
 シンガポールを拠点として、東南アジアからインド、アフリカへとからゆきさんは進出していたという。日清戦争から日露戦争までの10年間で、シンガポールにいた日本女性たちの数は倍になり、日露戦争(1904-1905)後は一千人を越していた。それが、第1次世界大戦後、娘子軍を中心とした虚業の繁栄する邦人社会から、「正業者」を中心とする実業邦人社会へ転換していったのだという。
 本書は、プロローグで、昭和34年に、アフリカから1人の老女が日本へ到着した場面を描写するところからはじまり、ザンジバルという土地の案内から、著者自身の追跡過程にしたがうようにして、アフリカにわたった「娘子軍」=からゆきさんの足跡を明らかにしていくという流れで書かれている。第2章「娘子軍の航跡」では、さまざまな人物の文献・証言をたどりながら、いつの時点でどのような人物がザンジバルにいたのかが追跡される。その過程では、社会情勢的な背景とともにからゆきさんの「航跡」が述べられていく。
 およそ巨視的な視点から、ザンジバルでの聞き込み調査で明らかになっていったことへと述べられていく。ザンジバルに住む老人たちの話や日本人船員たちの証言などを通じて、ザンジバルで繁盛していた「ジャパニーズ・バー」の存在、そこで働いていた、長崎・天草・島原出身の女性たちの様子がおぼろげながらわかってくる。そして、第7章では、プロローグで登場していた1人の女性「おまきさん」のたどった足跡が、数葉の写真とともに「ある自画像」として簡潔な筆致で語られる。

 木の葉のようにザンジバルまで地球上を漂って行った女性たちのその破天荒な開拓者ぶりに感嘆してしまうのみである。

付記(2002.7/16):
 シンガポールを中心とした東南アジアのからゆきさんについては、清水洋・平川均『からゆきさんと経済進出 世界経済のなかのシンガポール-日本関係史』(コモンズ1998.4)が、その第1章で精細に論じている。
 これによれば、日本人娼婦がシンガポールにはじめてあらわれたのは1870〜71年(明治3〜4)年ごろであったといわれる。日露戦争のころにはシンガポールだけでも600人あまりの日本女性が売笑婦として活動していた。(この点、上記本文の数字と異なる)。
 1914年、第一次世界大戦がはじまるころ、ヨーロッパでのさかんな廃娼運動の流れをうけて、海峡植民地政庁によって日本人嬪夫(ぴんぷ)が追放され、新規娼婦の入国制限がおこなわれる。1920年、日本領事館は日本人娼婦の追放を公表。こののちは、私娼として残ることとなる。
 廃娼の理由としては国家の対面や道徳問題があげられるが、それ以上に重要なのは、日本の英領マラヤへの経済進出の成功があったという。だが、マラヤの経済が不振になると、マレー半島に移動した娼婦の多くはシンガポールにもどった。そのうち、インド人男性といっしょになる者が多かったという。
 シンガポールへの日本人の進出がからゆきさんをもってはじまるとしても、経済的観点からいえば、その後の日本人の連続的な発展へは直結しなかったという。

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[No.015] 2001.08/04

浅野智彦

『自己への物語論的接近 家族療法から社会学へ
(勁草書房 2001.6)

山崎義光

 「体験、思考、感情、行為等々の背後にはいつでもそれらを統括し、まとめあげる「私」が存在していると信じられている」。今日、しばしば語られる「自分探し」や「自己実現」等と言われる「私」をめぐる関心にアプローチする方法として、「物語」をキー概念として論じたのが本書である。

 本書では、「物語」を以下の3点で特徴づけている。
1. 視点の二重性
 物語は必然的に、語る視点と語られる視点の二重性を持つ。
2. 出来事の時間的構造化
 物語られる出来事は、選択あるいは排除された出来事を配列し、人・事・物の間の共時的な関係のみならず、時間的な関係をも含めた物語的因果性をなす。
3. 他者への志向
 語りは他者へ向けられており、語ることの正当化、他者との地平の共有という二重の正当化を必要とする。

 こうした「物語」の特徴をふまえて、本書の主張は次の2点に整理されている。
 (1) 自己は、自分自身について物語ることを通して産み出される。
 (2) 自己物語はいつでも「語り得ないもの」を前提にし、かつそれを隠蔽している。
 (1)の点は、常識的には、「私」は、まず「私」がいて、ついでそれについて私が語ると考えられがちだが、そうではなくて、他者が「私」をどのように見ているかという他者の視点をも含んで、自分自身について語るという営みを通してはじめて「私」が産み出されるということである。ひらたく言えば、ヒトが人間たるのは、人と人との「間」を言葉が媒介しているからであり、「私」が何者であるかもまた言葉の反照=反省としてリフレクティヴに構成されるというわけだ。
 そして、(2)の点は、私が「私」について語る場合に、かならず、自己物語が達成しようとする一貫性や簡潔性を、自己言及的に内側から突き崩してしまう「語り得なさ」がはらまれてしまうということである。自己の物語りはそれを隠蔽することで成り立つ。

 こういうテーマとその理論は、文学研究ではおなじみのものである。それは、しばしば、メタ・フィクションとして指摘されもする。
 たとえば、志賀直哉の「城崎にて」を思い出してみてもよい。
 この小説は、自分の死について、属目の生き物の死ぬ姿を介してその「死の静かさ」の気分を語っていく。もちろん、この小説のフレームは、死に近接する事故に遭ったことから回復する物語であって、死の語り得なさを隠蔽している。だが、自ら投げた石がたまたま当たって死んでいくイモリに出会うにいたって、死の偶有性に思い至り、死が実は語り得ないものであることを垣間見せつつ隠蔽する。
 こうした語り得なさゆえに語れなくなることに帰結していく小説として、横光利一「機械」を思い出してもよい。
 この小説は、私が汽車のなかである女性と知り合うことから、ある工場で働くようになり、そこで起こった出来事を語りながら、他者が私をどう見ておりどう認識しているかを含み込みながら語っているうちに、ついに私自身のことについて語れなくなってしまうことに帰結していく。

 本書では、「自己」物語に焦点をあてて論じ、自己という存在を理解するために「物語」という概念を経由することの優位を論じる。その際、語ることにはらまらる二重の視点(語る私/語られる私)の自己言及的な亀裂――私が語ることによって「私」は提示され産み出されるのだが、語る私の存在自体が語られたことに回収しえない超越論的な位相にあることよってのみ存立しているという亀裂――が避けられないことに自己物語の特異な点があるということ強調して論じている。
 「物語」は自己物語という形式のみならず、多様な語り方が可能であり、また、「自己」も一人の人間であるばかりでなく、「われわれ」として語られる場合もありうるだろう。そして、その場合にもまた「語り得ないもの」の隠蔽として「物語」は語られることになる。自己物語が自己の過去を語るということであるならば、「われわれ」の過去の物語は広義に歴史ということになる。

 本書は、「物語」と社会の構成との関係を、とくに「自己」に焦点をあて、そこに限定して論じていて、使える。「使える」というのは、ここで論じられているのは、あくまで限定された範囲での事の整理であって、それにとどまっているからだ。さて、どう使うか。

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[No.014] 2001.06/14

原武史

『「民都」大阪対「帝都」東京 思想としての関西私鉄
(講談社選書メチエ 1998.6)

山崎義光

 関西にやってきて、まず何にとまどうかと言えば、地名がわからないのはとりあえずおくとして、電車・地下鉄の複雑さである。もちろん、複雑といえば、東京の方が複雑だし路線数も多いことだろう。だが、たとえば、梅田あたりで、私鉄の乗り継ぎのために駅から駅へ歩いて移動しようとして、駅はどこかとまず覚えるのが大変であった。
 何がいけないといって、道案内の表示が不親切なのである。なかんずく、JRの駅がどっちなのかをさがそうとして、表示がないかと探しても、なかなか見つからず、あったと思うと、これまた小さく申し訳程度に書かれていたりする始末なのである。

 しかし、しばらく住むと、こうした事情が、JRと私鉄との勢力関係の違いによることがわかってきた。
 東京であれば、私鉄はJR山手線から郊外へ出ていくための電車である。それは支線としての位置づけであり、こまかな"つなぎ"であるが、関西ではそうではない。むしろ、JRに乗らずに、京都・大阪・神戸と移動することが可能なのだ。

 表題の本は、こうした関西文化圏における鉄道の歴史を、一つの「思想史」として扱ったものである。

 明治の「私設鉄道条例」によって、法的に「官」主導「民」従属の体制で鉄道の敷設が全国に広がる。この法律は、軍隊と天皇の移動手段として幹線を確保する目的で整備された。
 しかし、その間隙をぬって、「軌道条例」(「軌道」はもともと人力・電気・蒸気などによるローカルな路面線路をもちいたものとして位置づけられていたとのこと)の拡大解釈を手がかりに、今の阪神・阪急・京阪・南海・近鉄などの私鉄各社が、明治末から大正時代に誕生する。

 こうした事情から、「官」主導で整備された東京を中心とする国有鉄道が全国を席巻していくなかで、関西では「民」主導の鉄道網が発達していったとのことである。「帝都」東京を中心とする国有鉄道が、国民の統合の装置であったとすれば、「民都」関西の"私鉄王国"は文化装置としての基盤となっていく。なかんずく、小林一三の経営方針によって隆盛していく阪急は、宝塚をはじめとする、レジャーと居住地を面として広げながら発展していくことになる。
 もちろん、戦争の時代を迎えるなかで、天皇・皇太子の行幸行啓をめぐって都市計画に「官」の力が及んでくる。

 都市計画というのが、実に政治的な場なのだということをあらためて思わされる。

 本書は、鉄道がどのように整備されたかという"ハードウェアの「思想」"については論じられているが、そうしたハードを基盤にしたソフトウェアとしての「思想」について考えるとするとどうなるのだろうか。

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[No.013] 2001.06/04

吉田純
『インターネット空間の社会学』

(世界思想社 2000.7)

山崎義光

 インターネット空間が出現したことによって、社会空間の編成がいかに変容しているか? インターネット空間は、私的な領域と公的な領域との境界のあり方の変容をもたらし、コミュニケーションのあり方の変容にまでつらなる。

 インターネット空間が、今後どのような場として社会に根づいていくのか、いちがいには言えないが、いずれにせよ両義性をもつことは、まちがいない。一方で、システムによる支配的な権力構造を相対化する公論形成の基盤になりうる可能性をもつし、多様な人間関係の場をもつことが容易になる。だが、他方ですでに処々方々で起っているネット犯罪・出会い系サイトからはじまる人間関係の犯罪への帰結など、旧来の人間関係における"良識"が通用しなくなる傾向はつよまる。

 実際、インターネット空間に参入し活用しようとするときに感じ考えさせられるのは、社会の生成の感触と自由の可能性の問題である。
 インターネット上のコミュニケーションは、それによって大小のコミュニティの生成、あるいは、あれこれの既存のコミュニティへの参加と離脱が容易で、意外な人間関係が生成することのちょっとしたおもしろみを体験できる。コミュニケーションがコミュニティの原初的な形態なのだということを感じる。他方で、コミュニケーション-コミュニティへの参加が容易になり自由度が高まる分だけ、規律を守ること(守らないこと)ひいては持つべき規律は何かという規範意識を感じることがふえる。

 本書はそうした問題を考えるための見取り図を描き出している。

 ユルゲン・ハーバーマスの「公共圏」概念を批判的に継承しながら、「システム」(国家行政機能・経済機構など)と「生活世界」(私的なコミュニケーション・市民団体などの諸活動)という、社会を構成する理論的な二つの次元に対して、インターネット空間の出現がどのような意義をもつかについて論じている。
 旧来の新聞・雑誌・ラジオ・テレビ等のマスメディアは一方的な情報を供給し、発信者-受信者の枠組みが固定的で、"システムによる生活世界の植民地化"を促進するのに対して、インターネット空間は双方向的多元的な情報の流通が可能な<仮想空間>である。<仮想>的なものとは、「たとえ物理的な実体をもたなくとも、人間にとってなんらかの実質的ないし社会的機能を果たすもののこと」(p.51)であり、<仮想社会>とは、<現実社会>とは相対的に独立した空間でありながらも、<現実社会>になんらかのかたちでかかわりあい、ラディカルな変容をもたらす可能性をもった空間だといえるという。

 本書では、インターネット空間をネットワーク性・匿名性・自己言及性の3点から特徴づけている。
 ネットワーク性は、多元的で双方向的なコミュニケーションを可能にし、匿名性は電子的な情報のみによって結びつくために、発信者の属性(社会的な身分・性別・年齢等)は容易に乗り越えられる。そうして新しい結びつきが可能になることで、<現実社会>の枠組みとは相対的に次元の異なったコミュニケーションの枠組みが、仮想的なコミュニケーションの場の内側から創出される(自己言及性・自己準拠性)必要がでてくる。この点で倫理の問題が浮上する。

 こうした問題を考えるとば口に立つのに好適な一書であると思う。

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[No.012] 2001.05/21

村瀬学
『なぜ大人になれないのか 「狼になる」ことと「人間になる」こと

(洋泉社 2000.9)

山崎義光

 「大人」と「子供」の境界的存在としての「少年」をめぐる問題を、様々な事件を例としてあげながら論じた書である。

 「人間」の集団が「法」(正義)を生成し共同体が生まれること、逆に言えば、「法」外な存在に対しては、「法」の内側にむけた「人」としての相貌とは異なる凶暴な相貌をもちうるという事態のありようから説き始められている。数々の異様な少年犯罪の根には、「人」社会の生成する力の作用とのかかわり方があるという観点である。

 「大人」になることの過程で、「少年」が「狼」のような凶暴性と自立の相貌をもつこと、それは社会の共同性にかかわっているのだから、潜在的には人間誰にしも起こりうることであると論じ、そうした変貌の集中的に起こる「13歳」に、「人」としての通過儀礼が必要ではないかという一つの思考実験を披露している(それについては、別の本『13歳論』洋泉社があるとのこと)。

 多くの事件の例をあげながら、それぞれの事件の固有性に即しつつ、そこでは何が起こったのかを「大人」=「人」社会にこれから参入する「少年」たちに普遍的な観点から論じているところがおもしろい。とりあげている例も、実際の事件、手記、小説、テレビ番組、歌謡曲等と幅広い。

 全体に、問題提起的で、やや中途半端な、あるいは、やや雑なところも多々あるが、論じ尽くすことよりも、観点を提供するという意味で示唆的である。

 ここでは、『小僧の神様』を論じた第三章の付論にだけ若干言及しておきたい。
 著者は、この小説が、十三、四歳の「小僧」に設定され、それが「お金」をめぐって展開する小説である点に着目している。(ちなみに、この章ではそのまえに、中学生五千万円恐喝事件を論じている)。そして、この「小僧」が饅頭やらお菓子ではなく「寿司」をほしがっていること、つまり「大人」の観点をもちはじめようとする子供の物語であることを指摘する。そして、結末において「小僧」が直面するのは「お金」であり、それを使う「大人」なのだとし、それを小僧が「神様」だと思っていることについて、著者は作者がうまく処理しきれなかったとし、「小僧の神様」の「神様」とは、「サンタクロースのような「恵みの神様」」であるか、「大人の「商売の神様」」の二つしか考えられないと論じている。この結論は焦点がずれてしまっている。
 小僧が「お金」に直面することは、「お金」の超越論的(=神的)な機能に直面しているのであって、そこに「神様」を直観していることには意味がある。この場合、店員と貴族院議員の客、大人と小僧といった関係を規定しているのは「お金」である。金をもたない小僧は寿司にのばした手をひっこめてスゴスゴと出ていかなければならないが、お金を払われた店には「また来てくれないとこっちが困るんだからネ」と言われる。事情のよくわからない小僧は、お金をはらった大人を「神様」だと思うが、金をはらった大人の方は「淋しい」居心地のわるさを感じなければならない。金によって小僧に対して超越論的な位置に立つことへの居心地のわるさである。他方で、小僧がお金の超越論的な機能を大人に投影したとき、「神様」という形象を得ているわけであるが、これは小僧の錯視にすぎない。小説の最後付された、小僧の神様が何者であったかを小僧が知る結末を書くのをやめたというコメントは、小僧の誤解と大人とが、「お金」という超越論的な機能によって媒介されており、それゆえに、物語の叙法もAと小僧とに不定的に焦点化されていることを考えれば、至当なのだ。むしろ、今の目から見れば、小僧と大人の視点の落差を積極的に押し広げないで擱筆せざるをえないことの方に、物足りなさを感じるだろう。(多くの志賀作品に対する批評的な位置に、横光利一の作品をおくことができるが、この小説には、のちの『家族会議』の予感すら感じる)。

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[No.011] 2001.05/03

奥泉光『鳥類学者のファンタジア』
(集英社 2001.4)

山崎義光

 最後まで読むと、もう一度最初にもどって読み直したくなる小説である。
 ジャズ・ピアノのプロの奏者フォギーが、地下にあるジャズ喫茶で演奏していると、真ん中にある柱の陰にたって聞いている人がいる。いよいよ演奏にノリはじめるとすぐそばまでよってくる。序章は演奏している最中に現れた不思議な女性との出会いと、ちぐはぐな会話が、フォギーの「私」語りではじまる。演奏を聴きに来た友人達にもその姿は見えているのだが、ふいと現れて、ふいと消えてしまう。その不思議な女は、「霧子」という名であることがわかるが、「霧子」はフォギーの祖母(父の母)の名で、フォギーの本名「希梨子」は、この祖母の名からつけられたのである。
 祖母「霧子」は、ピアノ奏者で、フォギーの父(霧子の子)が生まれてすぐ、祖父とは離婚し、第二次世界大戦のドイツにわたって行方しれずになったのだった。
 フォギーは、ピアノの弟子佐知子ちゃんとともに祖母の足跡をたずねようとして、ヨーロッパに渡った佐知子ちゃんから受け取った知らせを読んでいるうちに、フォギーの忘却されていた記憶がよみがえり、1944年のドイツにまぎれこんでしまう。そして、祖母霧子と出会うことになる。そこから、祖母霧子との出会いと交流の物語がはじまる。
 「フォギーの物語I〜IV」は、1944年のドイツに紛れ込んだフォギーの自己語りなのだが、しかし一人称はもちいられず、自分を「フォギー」と呼びながら三人称で物語られ、終ってしまった視点からではなく、語る自分と語られる自分とが平行した距離を保ちながら物語られていく。饒舌な〈語り〉そのもののうちに、20世紀末の現在時と1944年の現在時とが交錯する。
 謎をはらみながら展開していく間に、「霧子」の事跡があきらかになっていくのだが、あきらかになることによって、逆に前を読み返したくなるという点で、ただの探求譚(推理・冒険)とは異なる。「霧子」と「希梨子」、猫のパパゲーノ、そしてフォギーのオリジナル曲「フォギーズ・ムード」と「オルフェウスの音階」といった言葉の重なりが、意味すなわち過去と現在の交錯するトポスそのものとなる、語る言葉自体の強度によって読ませるからである。それゆえに、一種繰り返して聞きたくなる音楽にも似る。
 この小説はもともと「フォギー 憧れの霧子」という題で連載されていたのが、『鳥類学者のファンタジア』と改題されている。なぜ「鳥類学者」であるのかは、読んでもわからない隠喩的な題付けである。

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[No.010] 2001.03/13

田口ランディ『コンセント』
(幻冬舎 2000.6)

山崎義光

 働かず、社会との接触をもたなかった兄が奇妙な死に方をして発見される。引っ越したばかりの部屋のダイニングで死んでいたのである。自殺でも他殺でもない。この死以来、「私」は異臭の幻覚に悩まされ、兄との過去がのしかかってくる。それを癒す過程で、友人木村、大学時代の師であり愛人であった心理学者国貞、大学の同級生で今は文化人類学の研究をしている本田律子、同じく精神科の医師になった山岸等との関係がえがかれる。
 題名の「コンセント」は、広義には、世界とつながっていることによって、その限りにおいて生きているという実存と世界との関係の隠喩であり、狭義には性交の隠喩である。他者の感情に侵入されてしまいやすい実存を「私」は「コンセント」と呼び、コンセントを癒す現代の巫女=娼婦となるところで終わる。
 世界と実存がシンクロしており、私にとって異和的な他者たちとの"共生"においてしか生きようがないといった認識。
 "共生"が一つのコンセプトとして語られるようになったのは、70年代からだろうか。60年代までの三島や大江の小説は、主体が自律した主体たろうとしてその不可能に直面する実存を書いたのに対して、そうした不可能を挫折としてではなく、肯定的に受容しようとする志向が"共生"という形式で呈示されるようになったといえるし、抑圧に抗する「私」ではなくて、抑圧から癒される「私」という形で呈示されるようになったといえるだろうか。
 理論的には、市川浩の身体論などが一役買っていたと思われるが、これが出されるのがちょうど'70年前後である。小森陽一の秀抜な漱石『こころ』論が書かれたのは80年代であった。これは、主体の不可能性を生きる先生やKについて語る「私」に焦点をあわせ、Kや先生に対する批評的な立場を読み解いてみせたものである。そうした読解が提示されて有効であったのも、時代の機微をうまく掴んでいたからである。その後、『寄生獣』や『共生虫』などのマンガや小説が書かれ、大澤真幸『虚構の時代の果て』(ちくま新書)が戦後の社会史の文脈で論じているのは周知の通りである。こうした言説が出されている背景には環境問題・インターネット等の"共生"を強いる問題群があるのは言うまでもない。
 そう思ってみると、今「コンセント」という隠喩で世界と実存の関係を形象化し、それがどうかすると自然との交歓といった趣で巫女という形象と結びついてしまうことの意義は、現代のありようを補完することにあるということになろうか。

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雑文誌うずまき