読 書 録 No.1〜9


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No.009 2000.10/30 [村上龍『共生虫』] 山崎義光
No.008 2000.09/11 [深沢正雪『パラレル・ワールド』] 柳瀬善治
No.007 2000.09/11 [船戸与一『虹の谷の五月』] 土屋 忍
No.006 2000.07/23 [武者小路公秀『転換期の国際政治』] 山崎義光
No.005 2000.07/11 [笠井潔『天啓の器』] 山崎義光
No.004 2000.06/27 [宮本輝『月光の東』] 山崎義光
No.003 2000.06/20 [『自己表現力の教室』] 跡上史郎
No.002 2000.05/** [百川敬仁『日本のエロティシズム』] 山崎義光
No.001 2000.04/** [三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史』] 山崎義光

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[No.009] 2000.10/30

村上龍『共生虫』
(講談社 2000.3)

山崎義光

 引きこもり青年ウエハラは、準大手の建設会社に勤める父と、俳句が好きなごく普通の母親、2歳年上の兄に、短大に通う4歳下の妹と、東京と埼玉の境目あたり、東村山に住んでいる。長い間、実家の近所にアパートを借りて住まわされた生活をしていたウエハラは、母親以外とはほとんど接触のない生活をしているのだが、たまたまテレビの女性アナウンサー、サカガミヨシコに興味をもち、彼女がホームページをもっていることをある雑誌で知って、インターネットにアクセスするようになる。ウエハラがサカガミヨシコに興味をもったのは、彼女の病原大腸菌に関する短いコメントからであった。「寄生虫にしろ細菌にしろウイルスにしろわたしたち人類の知識が及びもつかないところで進化しているはずです、……」。サカガミのHPにアクセスしたウエハラは、掲示板に書き込みをする。掲示板には、RNAというニックネームで、ウエハラの引きこもりを非難するメッセージが返されてくる。ウエハラは、RNAにメールを書く。
 ウエハラには、人に言えない秘密があるのだった。それは、自分の胎内に寄生虫がはいりこんでいることであった。サカガミのHPで知り合った何人かの人たち、インターバイオと名乗るグループは、共生虫についての知識をウエハラに与える。何度目かの返信を打ち終わったあと、ウエハラ一人でコンビニに出かけ老婆と出会う。老婆は独り言を言っている。フラフラと歩き出した老婆のあとをつけたウエハラは、家をつきとめ、老婆を殺すことを決意する。共生虫についての知識をインターバイオから教えられたウエハラは、共生虫を胎内に持った選ばれた人間は、殺人・殺戮と自殺の権利を神から委ねられた特権的人間であると自覚するようになったのである。
 ウエハラは、最初の犠牲者として老婆を殺そうと出かける。老婆の住んでいるのは、かつて映画会社の作業所であったとおぼしき掘っ建て小屋であった。しかし、たずねていってみると、老婆が顔を出し、待っていたと言って中へ招じ入れ、古いフィルムを見せられる。それは、戦争中の様子を映した映像や、水俣病患者を映したとおぼしき映像であった。どうやら老婆は、ウエハラを誰かと勘違いしているようすで、老婆が語りかけているのは、防空壕に隠れたまま出てこないある人物のようなのであった。結局、ウエハラは老婆を殺さないまま、そこをあとにする。
 そんなことがあった後で、ウエハラの父が自殺未遂を起こす。家に強制的につれもどされた彼は、兄と父親をバットで殴り、そのまま100万円の金をもって狭山丘陵の南西にある瑞窪公園へでかける。そこには、かつての防空壕があり、化学兵器(毒ガス)が埋められているという話を、インターネットで知っていたからである。
 そこへウエハラとの接触をもとめる「インターバイオ」があらわれる。ウエハラが、老人を殺害する光景を見るために呼びよせられた3人のインターバイオの面々は、ウエハラの毒ガスによって、異様な姿と化して殺害される。

 ………………

 ウエハラに終始焦点化されるナラティヴで、私語りに近いものである。(ウエハラを「私」と置き換えてもある程度まで読める。しかし、「私」語りでないことの差異こそが、問題だともいえそうであるが、今はおいておこう)。
 ストーリーはそれほど複雑ではないのだが、けっこうな長さである。この長さは、多くは、ウエハラが属目する無意味な情景と、送られてくるメールの文面による。瑣末な嘱目の事物を列叙し、Webページやメールの文面が挿入されるこの小説のディスクールは、書かれていることの意味によりも、詳細さとそれにともなう長さこそが読まれるべき強度なのだと気づく。
 この小説は、読んでいて、どこか三島の小説を想起させるようなところがあると感じたが、思い比べてみると、三島の『美しい星』と似たところがあることに思い当たる。
 東京と埼玉の境に位置する郊外に住む、サラリーマンと主婦に3人の子供の近代家族。『美しい星』は、埼玉県飯能市で、『共生虫』の東村山とも近い。『共生虫』もまた、〈郊外〉小説であると言えるだろう。
 『美しい星』の宇宙人たちは、無為と無意味にひたされた生活の末に円盤を目撃し、「ばらばらな世界が瞬時にして医やされて、澄明な諧和と統一感に達したと感じることの至福」とともに啓示をうける。『共生虫』のウエハラも、インターネットを通じて、共生虫を体内にもつ自分が特権的な存在であると目ざめることで、「おれの中でバラバラだったものが統一されて、それがないと本当は生きていけないというような何か重要なものとやっと接触できた」という自覚を得る。
 ウエハラは、畢竟、消費社会が生み出した alien である。殺人は、究極の消費であり、ウエハラが、毒ガスによって殺害した人物たちの異様な姿は、無意味な消費=殺害の果てに異物 alien と化した人間の姿であって、そこに見いだされているのはおのれの鏡像であるだろう。
 『美しい星』の登場人物たちが、宇宙人であると自覚することによって、周囲の世界が許しうる美しい星の光景として眺められていたように、この小説の"長さ"を構成する、嘱目の風景の細部描写は、特権的人間であると自覚したウエハラの"引きこもりからの回復"の兆しとして提示されるが、そうした長さは、あたかも体内に長くその生体を潜ませる共生虫の姿とも重なり、はてしなく取り交わされるインターネット上の文字列、ないしは、コンピュータそのものを駆動するプログラムのイメージともだぶるだろう。
 『美しい星』の宇宙人たちがただの人であるかもしれないように、『共生虫』のウエハラもタダの人であるかもしれない。しかし、そうした事実問題は疑似問題にすぎない。それよりも、想像的なものを構成することに捧げられる長さの強度こそが問題なのである。

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[No.008] 2000.9/11

深沢正雪『パラレル・ワールド』
(潮出版社 1200円 1999.9)

柳瀬善治

 本書は第18回潮賞ノンフィクション部門受賞作であり、選考委員の鎌田慧、筑紫哲也らの絶賛を浴びた書物である。ブラジル在住の筆者が群馬県邑楽郡大泉町のブラジルタウンへと、いわば「逆出稼ぎ」をしにきたときの顛末を、外国人労働者、派遣社員、バブル経済、二重国籍といった問題を軸に、ブラジル人たちとの交流を交えて描いたものである。

 ブラジル人の視点で日本を見るという切り口と空理空論に陥らず実生活の経験に腰を据えた筆者のスタンスは語りづらいこれらの問題を実際に経験したものの視点で巧妙に接合させ、日本の中の「他者」との交流を肩肘張らずに書いている。

 なぜ、この本を手に取ったかといえば、筆者深沢正雪氏は私が三重大人文学部時代にお世話になった学部の先輩であるからである。当時、ヒッピーを自認して世界を放浪し、アニメオタクとして鳴らし、トランスパーソナルに傾倒し、すでに独自の雰囲気を漂わせていた深沢氏は10年後、一人の新進気鋭のライターとして私の前に姿をあらわした。

 かつて大学一年の頃、演劇部で私が舞台監督を務めていたとき、舞台上で発生した装置のトラブルに対処できずおろおろするばかりの私を見て、顔色一つ代えずに暗転の間に舞台に乗り込んで問題を解決して見せた深沢氏の芯の強さは、同じもの書きとなってもまったく変わらず健在で、様々に私を啓発しつづける。ともすれば、理論偏重に走りがちなわれわれ学究に対し、この書物は等身大で外部に開かれて生きることの意味を教えてくれる。

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[No.007] 2000.9/11

船戸与一『虹の谷の五月』
(集英社 2000.5)

土屋 忍

 直木賞受賞作でもある船戸与一『虹の谷の五月』は、なかなか読み応えがありました。13歳の少年ジャッピーノ(日本人とフィリピン人の混血)が視点人物で、彼が15歳に成長するまでの話です。用いられている語彙は少年の年齢にふさわしい平易な話し言葉が選ばれており、言葉を学ぶ過程そのものも描かれています。少年少女を(語ったり思い出したりする対象としてではなく)語り手として配置する小説って、最近よくみかけるなぁ、山田詠美『風葬の教室』はもちろんのこと藤原智美の「メッセージボード」もそうだったなぁ、なんて思いながら読んだのでした。

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[No.006] 2000.7/23

武者小路公秀『転換期の国際政治』
(岩波新書 1996.2)

山崎義光

 沖縄でサミットがあった。ニュースでは解説者が、得々と「東西問題から、南北問題へとシフトしている」などと言っている。そんな状況が歴然としてからさえ10年以上になると書いているのが本書。
 テロや民族紛争が絶えず報じられるポスト冷戦の時代では、近代的な理念に基づく国民(民族)国家 nation state を単位とした、権利主体として原則的に対等の「国家」間関係によって成り立つ国際秩序が、国家としての単位を形成していない、「エスニー」* と、国家や運動からも見捨てられている「底辺社会」によって脅かされ、そうした「国家」の枠組みの中では処理しきれない問題が浮上している。
 本書では、それを第2次大戦後の時代の流れに即して解説している。アジア・アフリカをはじめとする多くの「南」の勢力は、1960年代までに「国家」として独立して連帯し、一時は石油禁輸措置等によって先進諸国に経済的に対抗するが、そのことが逆に、経済的危機を招く結果となり、当初の先進諸国に対抗するまとまりが崩れると共に、国民国家連立の国際秩序という枠組みにはおさまらない、エスニーと底辺社会の問題が噴出することになっていく。それが、とくに加速して浮上するのが、米ソ二大核超大国の対立構図が崩壊したポスト冷戦の時代になる。
 エスニーの問題は、先住エスニー、国家未形成エスニー、移住エスニーと分類されている。移住エスニーを例にとれば、移住労働者は、先進工業国の国民が嫌う職種に就き、とくに非合法移住者は社会保障その他の福祉サーヴィスもない。そうした現象は、北アメリカ、西ヨーロッパ、日本でも急激に進行している。その結果さまざまな人権問題、文化的摩擦等々を招いている。国家や民族・文化という枠組み以外にも、日本においてマイノリティー(在日・部落・先住から女性などなど)が、社会問題としての対応を迫られる問題として浮上するのも1970年代以降である。
 こうした事態は、個人にせよ、国家にせよ、近代の依拠する根幹的な理念としての subjectivity の理念的枠組み(自律した選択の主体を単位とした枠組み)を突き揺るがす問題が現象として噴出している事態だといえる。
 (そう考えれば、「少年」問題も、「高齢者」問題も、これに連なるといえるだろう。)
 こうした状況に対応していくための処方箋は、簡単にはだせないが、国家以外の主体が国際・国内の両レベルで、政治・経済・文化各面の政策決定に参加できるような「新しい世界的立憲秩序」が、今日の「国家」間秩序に代わるオルタナティヴとして要請されるという。

*「エスニー」= 固有の文化・歴史・言語・宗教などをもとにした、一つのアイデンティティーを共有する共同体的な集団

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[No.005] 2000.7/11

笠井潔『天啓の器』
(1998.9 双葉社)

山崎義光

 しばらく前に出版されたもので、買ったまましばらく読まれずにツン読されていたのだが、断続的に読み進めて、ようやく読み終えた。推理小説の推理談義にそれほど面白味を感じるわけではない私は、読むのにいささか骨が折れた。

 本書は、いわゆるアンチ・ミステリーで、中井英夫『虚無への供物』(講談社文庫/創元ライブラリ)――作品中では『ザ・ヒヌマ・マーダー』――をめぐって、この書物の「作者」と作品誕生の秘密をめぐる物語が、『ザ・ヒヌマ・マーダー』誕生時の「仲居」の挿話、その後の作品の書けない作家となった「仲居」と愛読者藤晶夫の挿話、「仲居」の死をめぐって〈仲居・マーダー・ケース〉を調査しはじめる、竹本健治をモデルとした「尾を噛む蛇III」を構想中の推理小説作家天童直己の挿話、「作者」「作品」をめぐって議論を闘わせ、〈仲居・マーダー・ケース〉の謎に迫る天童と編集者三笠・宗像冬樹の登場する挿話等が、交互に展開されていく。

 天童・宗像・三笠らが交わす文芸批評の対話場面においては、メタ・フィクションの20世紀における意義、谷崎-芥川の話の筋論争等が言及され、戦争と革命を経由したのちの20世紀における無意味を意味化しようとする観念的情熱など、笠井『テロルの現象学』(ちくま学芸文庫)以来の議論が、とくに、神の如き特権的・超越的な大文字の作者をめぐって交わされる。

 読みどころとなるべきは、こうした議論と『ザ・ヒヌマ・マーダー』をめぐるミステリーの展開とが、どれだけ相互に批評的な意味をもって噛みあっているかという点になるだろうか。

 同じく笠井潔『天啓の宴』(双葉社)のときにも感じたことだが、今いち、議論とミステリー部分のかみ合いが生煮えでしっくりせず、読んで「天啓」をうけないのは、なぜだろうか? 書く主体の自意識とか、大文字の作者といったような問題が、サブ・カルチャーがすでにサブではなくなり著作権者は問題になっても作者は後景にしりぞく社会的回路ができつつある今日的なリアリティからズレてるからなのでもあろうか? 

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[No.004] 2000.6/27

宮本輝『月光の東』
(2000・5 中公文庫)

山崎義光

 パキスタンのカラチで自殺を遂げた友人の残した「月光の東まで追いかけて」という言葉をきっかけに、中学校時代の初恋の女性・塔屋米花の思い出がよみがえり、杉井純造は、その後の米花を探りはじめる。自殺したサラリーマン加古慎一郎の妻美須寿もまた、夫の魅せられた女性を憎悪しながらもその謎に引きつけられていく。……

 杉井純造の語る奇数章と、加古美須寿の日記の形式で物語られる偶数章が、交互に配されながら、二人のパースペクティブを通して、塔屋米花という謎の人物の輪郭が浮き彫りにされる。

 塔屋米花の形象は、典型的な、「おぞましきものの美学化」であり、あらん限りの被差別イメージが活用される。塔屋一家は、近づきがたいアウラを放ちながら各地を転々と流浪するマレビト的家族であり、美貌を持ち蠱惑的なヒロイン米花は、周囲から羨望されるとともにルサンチマンの標的ともなり、聖別される。娼婦めいた米花の形象は、このような被差別イメージの延長で「自然と」受け入れられる。こうした手法は、渡部直己が論じたように部落差別の文学的手法としてなじみのモノであることが知られている。

 杉井の友人にして、美須寿の夫である加古慎二郎の自殺を契機に、二人は謎の空白を埋めようと、知られざる過去を知るために生きはじめる。その核にあるのが呪文の如き「月光の東」である。意味不明な非在の場所を指示するこの言葉は、非在であるがゆえに魅惑し、それに憑かれることになる観念的なフックである。このフックに吊り上げられるように、電報・手紙・電話といった通信手段や、電車・タクシー・飛行機等の交通手段で結びつけられたネットワークによって、家庭や仕事の日常的人間関係とは異次元の、過去に足場をもった人間関係の〈世界〉が開示されていく。

 「月光の東」に導かれて、謎を知るために杉井と美須寿は行動をはじめるのだが、知るために開始された探求が続けられ、過去が次第に明らかにされていく間に、知ることそのものへ憑かれた欲望が溶解し、杉井は探求の過程で知り合う合田澄江や柏木と、美須寿は古彩斉・唐吉叔父と交流するなかで、過去の記憶のなかに固着した〈観念〉から癒され、現在の〈関係〉そのもののうちに生きることへと転位しはじめるとき、登場人物たちは再生するとでもいうのだろうか。「月光の東」の呪文は、効力を潜めていき、人物それぞれは、新たな目で受け入れられた各々の生活世界へと回帰していく。当の米花も「月光の東? 私はそんな言葉知らない」と言うことになる。

 知るために生きるという、目的と手段の関係が逆転して、知るという目的そのものが手段にすぎず、気がついたら、喪失そのものが再生への促進剤となっているというわけである。

 ところで、美須寿は、塔屋米花が何ものであるかに興味の中心を強く起き始めるとともに、夫の自殺の心因には、ほとんど興味を持っていないかの如く、この物語のなかでは忘却されていくのだが、これはどういうことなのだろうか? 海外単身赴任した中年サラリーマンがどうして自殺することになるのだろうか? 

 おそらく、それはどうでもいいことなのであろう。どうでもいいことになるということ、つまり〈観念〉に憑かれて思い悩んだ末に死ぬなどという生き方には、誰もいつまでも同調していたりしない。〈関係〉の中で今を生きることこそが現代を生きる作法なのだとでもいいたげに、登場人物たちは癒されていく。

 だいたい、中年になってまで中学時代の初恋に胸ときめかせていられるというのは、かなり薄気味の悪い事態ではないだろうか。

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[No.003] 2000.6/20

荒木昌子・向後千春・筒井洋一
『自己表現力の教室  大学で教える「話し方」「書き方」

(2000・4、情報センター出版局)

跡上史郎

 普段は、この手の本はまったく読まないのですが、著者の一人が同じ講座の人だっ たので、御恵与賜ったわけです。

 というわけで、

主張=「私たち文学屋も『自己表現力の教室』のような本を読むべきだ」

根拠=「私たち文学屋は、論文や学会での口頭発表において、本当に伝える価値の あることをわかりやすく効果的に伝える方法論に、十分に自覚的ではないことがあ るからだ」

理由付け=「わかりやすさや効果的な伝達の方法論に意識的でないばかりに、内容 に見合った評価を受けることができない事例が見受けられるではないか」

裏付け=「私たちは、論文の書き方や学会発表のやり方について、一定の方法論に 基づく教育を受けてこなかったし、その重要性について喚起されてもこなかった」

反論=「だからと言って、特に文学の表現について考察することの多い私たちが、 自らの表現について自覚的でないというわけではないし、文学に関する論文ならで はの表現というものがあってもいいのではないか」

限定条件=「『自己表現力の教室』の著者達も、同書には『私たちが課題を克服し ていく過程が反映されている』と言っている。同書を問題解決のアプローチの一つ として受けとめ、参考にしていくべきである」

イマイチ? 次はマーケティングの勉強でもしよう。

 

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[No.002] 2000.5

百川敬仁  日本のエロティシズム
(ちくま新書243 2000.4)

山崎義光

 百川敬仁『日本のエロティシズム』(ちくま新書)は、皆さま、もうはや、お読みになられましたでしょうか。
 異界と時間意識と、自意識としてのエロティシズムとその一形態としてのマゾヒズム、とその社会的背景との関連から故郷の想像力、植民地の想像力を論じる、といった具合。作品も近世のものから、近代の鏡花、漱石、谷崎、川端、三島等々多彩。
 かつて、演習で「異界」をテーマにしていたやに記憶する私は、こんなふうに展開してほしかったのかなぁと、思いつつ、アクロバティックな論脈を、結構楽しんで読めた次第。
 『葉隠』−吉田松陰−二・二六事件の青年将校手記−三島と語り継ぐあたりの第三部は、三島の論点を基本的なところで踏襲しており、谷崎を論じるにあたって「秘密」から「金色の死」へと論じているあたりなど殊の外そうなのだけれども、私は三島論として読んでいました。
 全体にアラっぽく、作品の技法レベルについての言及が少ないあたりが、物足りない気がするけれども、読んでおいてよい一書であると思う。

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[No.001] 2000.4

三浦展 「家族」と「幸福」の戦後史
(講談社現代新書1482 1999.12)

山崎義光

 「郊外」という場にからむ社会形成上の諸問題を論じた書。
 日本の1970年代を境に、消費社会の顕著な傾向があらわれ、郊外に住む、仕事と家事を分担した父親と母親に二人の子供といった「幸福な家族」像が明確にあらわれる。「郊外」はその夢の実現の場として形成される。
 「郊外」は、すぐれて現代的な場であり、そうであるがゆえに、様々な現代的な社会問題が生まれてきている。
 第1に、郊外生活者の多くが、自分の生まれ育った地域から遠く離れて暮らす「故郷喪失者」であり、そこには共同性が欠如している。
 第2に、郊外では働く姿が見えない。働く場(労働)と生活の場(消費)が分離され、ただの住空間と化した郊外においては、人の差異がなくなっており、端的にいえば、「世間」がないのである。
 第3に、郊外は「均質性」をその特徴としていることである。住空間そのもの、街路そのものがそうである。年齢や家族構成や職業等々の差異も消去される傾向にあり、人の質も均質化される。
 第4に、生活空間が機能主義的になりすぎ、無意味な遊びの空間が排除されるどころか、あらゆる点で管理が行き届きすぎている。無駄のなさが息苦しさにつながっているのである。
 第5に、郊外は私有地だという点である。郊外に踏み行ったときの居心地の悪さは、そこが私有財産の街であり、よそ者の入り込む余地のない、「外部」のない空間であることから来る。それはちょうど他人の家を訪れたときの居心地の悪さと似ている。郊外に作られた公園は、誰もが使える公園を目指して作られておりながら、規則や管理がきびしいが為に、逆に誰もいない公園、誰も自由に遊べない公園になってしまっている。実質的には、ニュータウンを開発した側の所有物と化し、住む人が自由に共有できる場ではなくなっているのである。
 。。。といった話。

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投稿雑文誌 うずまき