2001.12の「ヤマザキ3行日記」

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#2001.12/30    今年を振り返る

 「昨年度に懲戒など処分を受けた公立の小学校、中学校、高校の教員のうち、わいせつ行為での処分は99年度の22%増の141人、体罰も10%増の428人で、いずれも過去最多だったことが26日、文部科学省のまとめでわかった」(asahi.com 教育)というニュースが流れていた。この手のショッキングな事件として、大阪の中学教師が中国道で起こした事件などもあった。
 ここへきて、「わいせつ行為」や「体罰」での処分が増えているということは、どういうことなのだろうか。教師の性倫理の低下であったり、見境のない体罰をする教員が増えているということなのだろうか。一方で、10〜20%以上というのは、尋常の増え方とも思えないことを思うと、これまでも実はおこなわれていたようなことが、きちんと告発されるようになってきたということであるようにも思える。
 教師とならんで、近頃盛んに告発されているのが、警察の不祥事なる事件である。痴漢・わいせつ行為から、職権乱用など、多彩である。
 国家公務員・地方公務員・自治体の外郭団体等々、「正しく」あるべき機関における横領事件なども、いくつも報道されていた。
 「警察」や「学校」が「正しさ」を旨とする組織であり、それに従事する人には、その「正しさ」を公私にわたって体現することが求められることの反動として、如上の事件はスキャンダルとして報道される。
 国家に統合される組織体としての社会が、それに所属する構成員に「正しさ」を求めるという仕組みは、たとえば天皇制と一体となって戦前において「国民精神」として語られながら行われていた。戦後、そういう表だった組織化は、さしあたって緩和されてきたが、常識・良識として期待される「正しさ」のようなものは信じられてきたし、そういうものの体現として「警察」「学校」があった。
 もちろん、ここでいう「正しさ」は、正しかったためしはなかったとしても要請されている「正しさ」であって、そういう建前なしには成立しないという意味における「正しさ」である。
 こういう意味での「正しさ」は、なんらかの意味で、これらの機関において今後も要請されるし、そうでなければならない。
 だが、常識や良識すらも多元化・多様化している今日において、今後この「正しさ」は何によって備給されることになるのだろうか。
 これらの事件の被害者とそれを告発している眼差しを、抽象化・内面化したところのものに対する敬虔さであろうか。しかし、この抽象化・内面化された他者の受苦・他者の眼差しは、旧来の常識や良識が成り立たなくなった今日、一時的流動的、場合によっては相対的なものたらざるを得ないということになりはしないか。
 9.11テロは、そのことをもっとも強烈に我々に印象づけたのであった。アフガニスタンへの米の攻撃が、当初「無限の正義」と名付けられていたのが、「不朽の自由」と改称された経緯がそのことをよく示していた。
 社会が不安になればなるだけ、その不安に対する安全確保に対価を支払うというかたちで、この「敬虔さ」は世俗化していくことになるだろう。

 社会という船の底(下部構造=経済)に穴があいて構造改革が求められ、船底からの浸水で船体はバランスを崩してゆれにゆれ、その不安が船員全体にひろがって暢気に昼寝もしていられないといった趣が顕著に感じられた今年であった。
 

#2001.12/22    年末

 今年は、東北・北海道などの北の国で、ずいぶん雪が降っているとのこと。さすがに大阪では降っていないが、それでも例年よりは冷え込むのが早い気がする。

 年賀状を作っていたが、やっぱり、売れているだけあって、インクジェット用はがきだと、かなりキレイに印刷できる。われながらホレボレしてしまうほどなのだ。
 プリンタの種類にもよるのだろうけれど、紙質の設定をちゃんと「高品質紙」の設定にしないと、これがまたキレイに印刷されなかったりする。
 さすがに複雑な絵の方はそれなりではあるが、シンプルな絵の方はよい。
 印刷業者も、これじゃ商売あがったりではなかろうか。

#2001.12/17    「うずまき」のアクセス数

 「うずまき」のアクセス数10,000突破。
 はじめてアップしたのが、2000年1月。実質的に始動したのが、同年6月。
 最初の頃のデザインは、こんな感じでした。

#2001.12/15    「雑文」No.5をアップ

 久々に「雑文」に記事を書きました。
 メイン記事のはずなのに、半年も更新されないという本末転倒を是正するために、当初日記の記事に書いたものを載せてしまいました。
 共産主義の世界同時革命の理念とその歴史と、現今のテロとの通底性と相違について、誰か書いてないものだろうか。

#2001.12/12    イメージとしての現代

 現代の知のありようを「船」にたとえた人があるという。
 すでに、大海の上に船出して、港に戻ることもならず、故障しても洋上で船底の板を張り替えながら、底なしの海の上を、天候の変転する中を、航海してゆかねばならぬのが現代なのだというわけである。
 そう思うと、構造改革は泥舟の船底の修繕でもあろうか。そういえば、今年、洋上を何十日も漂って救出された人があった。「人間はなかなか死なないものだ」と言って多くの人の印象にのこった。これは現在の不況の世の中を象徴する出来事であったろう。
 似たような譬喩で、「超大型長距離トラック」にたとえた人もいる。
 たくさんの人と荷物を載せて疾走するこのトラックは、突然操縦が利かなくなる可能性、立ちはだかるものを押しつぶしても着実に定まった方向に向かっているかと思うと、見通しのきかない方向に突き進む場合もある。完全な統御は不可能で、疾走は気分爽快であることもあれば、恐怖の体験でもある。このトラックは、今や飛行機の飛影とだぶって、リアルな光景でもあるかもしれない。
 今日は、二人目の宇宙旅行者のニュースが流れていたが、地球そのものは宇宙に浮かんでいる船だけれども、地上には重力があって、自然環境があって、人間社会があるのだし、心地よく洋上を漂ってだけいるわけにもいかず、疾走するトラックを止めてしまうわけにもいかない。飛行機は落ちれば即死なのだ。快適さと脅威、今日の安心と明日の不安がピッタリと表裏の関係にある。

#2001.12/09    安吾な週末

 週末は京都に行っていた。
 土曜は安吾研究会で講演と発表を聞き、日曜は「青鬼の褌を洗ふ女」をめぐっての報告に対するコメンテーターの仕事をして帰ってきた。
 土曜の研究会の内容は充実していて、坂口安吾のテクスト(批評・小説)を考えるよい刺激となった。帰りには、参加者のみなみなさんともかなり語って、「分裂的散乱的な」おしゃべりであり対話であるような言葉の中から、なんとなし、自分でも論じてみようかという気持も少し芽生えた。
 コメントの仕事は、自分でもモウロウたる有様で(それは二日酔いであったという意味でもあるが、それだけではない)、自分でもツメのあまい内容だと思いながらしゃべったら、報告者からもフロアからも"突き放されて"、あわくってしまった。しかし、この救いようのない突き放しのおかげで、もう一度考え直すよい機会となった。
 突き放しには、納得の出来ない点もあり、あれこれ、言い訳というよりも、言いつのりをしてみたい気持はあって、自分がまったく的はずれなことばかりを考えているとは思えないのだが、しかし、それはまた後日、公表するかたちで示すことにしたい。
 "酩酊"して"分裂散乱的な"エピソード的会話の連続のあとに、自分の思考を統合することへの兆しをみつけたように思っていたら、また翌日"突き放され"て、まったく"安吾"な週末でありました。

#2001.12/07    子育てにまつわる地殻の変動?

 すっかり、吐く息も白くなって、冬らしい。

 児童虐待の件数が増えているという報道がしばしばある。
 児童虐待法が出来てから、公の数字として提示される機会がふえ、事件としての報道の数が増えたという事情があるにせよ、子育てにまつわる地殻の変動があるのではないのかと思わされる。

 出版社と書店を仲介していた鈴木書店が倒産してしまった。書物にまつわる地殻変動も起こっている。

#2001.12/03    新宮誕生ニュースへの関心度

 「ご出産特番、視聴率低迷 通常番組のテレ東がトップ」(asahi.com 文化・芸能)とのこと。
 「日本(人)」であることのナショナルな意識の熾き火はあいかわらずあるにせよ、それが必ずしも皇室への関心へと直結しないような断層が生じ、分立するようになってきているのだろうか。それとも、一般に「出産」に対する関心の散漫化があるのだろうか。(「ご成婚」との対比で)。

#2001.12/02    ニュース

 ジョージ・ハリソンの死のニュースと、皇太子妃出産のニュース。
 ビートルズと松田聖子! が私の中学生時代の音楽環境だったことを思うと、時代のうつりかわりを感じざるをえない。
 出産の祝いに関しては、各学校に日章旗の掲揚をうながす云々の伝達が流れているとの様子もある。

#2001.12/01    3行日記のデザイン新装

 黒い背景だと職場で見ていてあやしまれるので、本文をエディタにコピー&ペーストして見ている! という読者に出会ったので、新装。数少ない読者は大事にせねばならぬ。
 (>マッちゃん、これで大丈夫?)

YAMAZAKI Yoshimitsu
E-mail:yymzk@fo.freeserve.ne.jp